に学ぶべきところがあり、従っていくぶんかの外来語を不可欠的悪として見逃がすだけの雅量をもっていなければならない。しかしこれも程度の問題である。語感の強弱というくらいのことを外来語採用の標準とすることは断じてゆるせないと思う。英語やドイツ語は日本語に較べてたいていの場合に語感が強い。現代の日本人が語感の強い語を喜ぶとすれば、いっそ日本語を捨てて英語やドイツ語ばかり用いたらいいということにまでなってしまいそうである。「試験」などとなまやさしくいうよりは「エクザーメン」といった方が試験の感情当価はよほどよく表現されている。「わが祖国」というよりは「マイン・ファーターランド」といった方が遥《はるか》に荘重に響く。
 第三の反対理由は言語の世界にも適者生存の自然|淘汰《とうた》が行われている、人為的な強制などでは、言語の改廃は困難であるというのである。ガラスだのベルだのコップだのは生活上の必要から言馴れてもうすっかり落ついてしまったではないか。ジュバン(襦袢)などになると完全に時効にかかってしまって外来臭を脱している。もとはポルトガル語だといい聞かされて初めてそうかと知るくらいのものである。便利
前へ 次へ
全12ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
九鬼 周造 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング