東洋語としての日本語の統体が欧米語によって煩《わずら》わされること今日のごとく甚しい場合に、我々の日用語が大部分外来語だといって無関心をきめ込むのは識見においていささか欠けるところがありはしないだろうか。
第二の反対理由は、特殊な語感が日本語では出ない場合があるという点である。たとえば「デー」は「日」よりも、「ゴー・ストップ」は「進め、止まれ」よりも語感が強くて効果的である。「テロ」を「恐怖手段」といい、「ギャング」を「殺人強奪隊」といっては感じが出ない。エロ・百パーセントも「色気たっぷり」では近代色を欠いている。外国の文化が新しくはいってくれば、外国語もそれに伴ってはいるのが当然である。西洋文明に対して広く門戸を開いている日本の現状では外来語の排斥は到底できないというのである。この理由はかなり強い反対理由である。殊《こと》にある種の語は特殊の情調を備えていて外来語として受け入れるより他に方法のないと考えられるものもある。私といえども一切の外来語を全部排斥せよなどと極端なことをいうのではない。そのようなことはいってみたところで決して行われ得ることではない。
我々は西洋文明からも大い
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