驍ゥは問題として考察することができる。しかし、いわゆる客観的芸術にあチては、「いき」の芸術形式は必ずしも鮮明な一義的な形をもっては表われていない。それに反して、主観的芸術は具体的な「いき」を内容として取扱う可能性を多くもたないために、抽象的な形式そのものに表現の全責任を託し、その結果、「いき」の芸術形式はかえって鮮やかな形をもって表われてくるのである。したがって「いき」の表現の芸術形式は主として主観的芸術、すなわち自由芸術の形成原理のうちに索《もと》めなければならぬ。
 自由芸術として第一に模様[#「模様」に傍点]は「いき」の表現と重大な関係をもっている。しからば、模様としての「いき」の客観化はいかなる形を取っているか。まず何らか「媚態」の二元性が表わされていなければならぬ。またその二元性は「意気地」と「諦《あきら》め」の客観化として一定の性格を備えて表現されていることを要する。さて、幾何学的図形としては、平行線ほど二元性を善く表わしているものはない。永遠に動きつつ永遠に交わらざる平行線は、二元性の最も純粋なる視覚的客観化である。模様として縞《しま》が「いき」と看做《みな》されるのは決
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