ッ現象としての「いき」を描写することができる。さきに意識現象としての「いき」の闡明《せんめい》に際して、文学上の例に拠《よ》ることのできた理由はそこにある。しかしながら、客観的芸術がかように「いき」を内容として取扱う可能性を有することは、純粋なる芸術形式としての「いき」の完全なる成立には妨害をする。既に内容として具体的な「いき」を取扱っているから、「いき」を芸術形式として客観化することにはさほどの関心と要求とを感じないのである。もとより、客観的、主観的の別は、必ずしも厳密には立てられないむしろ便宜上の区別であるから、いわゆる客観的芸術にあっても「いき」の芸術形式が形成原理として全然存在しないことはない。たとえば、絵画については輪廓《りんかく》本位の線画であること、色彩が濃厚でないこと、構図の煩雑《はんざつ》でないことなどが「いき」の表現に適合する形式上の条件となり得る。また、詩、すなわち文学的生産にあっては、特に狭義の詩のうちに、リズムの性質において、「いき」の芸術形式を索《もと》め得ないことはない。俳句のリズムと都々逸《どどいつ》のリズムとが、「いき」の表現に対していかなる関係を有す
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