離である。「いき」に左袒《さたん》する者は 〔amour−gou^t〕の淡い空気のうちで蕨《わらび》を摘んで生きる解脱《げだつ》に達していなければならぬ。しかしながら、「いき」はロココ時代に見るような「影に至るまでも一切が薔薇色[#「薔薇色」に傍点]の絵{3}」ではない。「いき」の色彩はおそらく「遠つ昔の伊達姿、白茶苧袴《しらちゃおばかま》」の白茶色[#「白茶色」に傍点]であろう。
 要するに「いき」とは、わが国の文化を特色附けている道徳的理想主義と宗教的非現実性との形相因によって、質料因たる媚態が自己の存在実現を完成したものであるということができる。したがって「いき」は無上の権威を恣《ほしいまま》にし、至大の魅力を振うのである。「粋な心についたらされて、嘘《うそ》と知りてもほんまに受けて」という言葉はその消息を簡明に語っている。ケレルマンがその著『日本に於《お》ける散歩』のうちで、日本の或る女について「欧羅巴《ヨーロッパ》の女がかつて到達しない愛嬌をもって彼女は媚《こび》を呈した{4}」といっているのは、おそらく「いき」の魅惑を感じたのであろう。我々は最後に、この豊かな特彩をもつ意識
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