験させる機会を与えやすい。「たまたま逢ふに切れよとは、仏姿《ほとけすがた》にあり乍《なが》ら、お前は鬼か清心様《せいしんさま》」という歎きは十六夜《いざよい》ひとりの歎きではないであろう。魂を打込んだ真心が幾度か無惨に裏切られ、悩みに悩みを嘗《な》めて鍛えられた心がいつわりやすい目的に目をくれなくなるのである。異性に対する淳朴《じゅんぼく》な信頼を失ってさっぱりと諦《あきら》むる心は決して無代価で生れたものではない。「思ふ事、叶はねばこそ浮世とは、よく諦めた無理なこと」なのである。その裏面には「情《つれ》ないは唯《ただ》うつり気な、どうでも男は悪性者《あくしょうもの》」という煩悩《ぼんのう》の体験と、「糸より細き縁ぢやもの、つい切れ易く綻《ほころ》びて」という万法の運命とを蔵している。そうしてその上で「人の心は飛鳥川《あすかがわ》、変るは勤めのならひぢやもの」という懐疑的な帰趨《きすう》と、「わしらがやうな勤めの身で、可愛《かわい》と思ふ人もなし、思うて呉《く》れるお客もまた、広い世界にないものぢやわいな」という厭世的な結論とを掲げているのである。「いき」を若い芸者に見るよりはむしろ年
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