増《としま》の芸者に見出すことの多いのはおそらくこの理由によるものであろう{1}。要するに、「いき」は「浮かみもやらぬ、流れのうき身」という「苦界《くがい》」にその起原をもっている。そうして「いき」のうちの「諦め」したがって「無関心」は、世智辛《せちがら》い、つれない浮世の洗練を経てすっきりと垢抜した心、現実に対する独断的な執着を離れた瀟洒として未練のない恬淡無碍《てんたんむげ》の心である。「野暮は揉《も》まれて粋となる」というのはこの謂《いい》にほかならない。婀娜《あだ》っぽい、かろらかな微笑の裏に、真摯《しんし》な熱い涙のほのかな痕跡《こんせき》を見詰めたときに、はじめて「いき」の真相を把握《はあく》し得たのである。「いき」の「諦め」は爛熟頽廃《らんじゅくた「はい》の生んだ気分であるかもしれない。またその蔵する体験と批判的知見とは、個人的に獲得したものであるよりは社会的に継承したものである場合が多いかもしれない。それはいずれであってもよい。ともかくも「いき」のうちには運命に対する「諦め」と、「諦め」に基づく恬淡とが否《いな》み得ない事実性を示している。そうしてまた、流転《るてん》、
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