ワり執拗《しつよう》に象徴化され過ぎている。直角的屈折を六回までもして「両己相背《りょうこあいそむ》」いている亜字には、瀟洒《しょうしゃ》なところは微塵《みじん》もない。亜字模様は支那趣味の悪い方面を代表して、「いき」とは正反対のものである。
 次に一般に曲線を有する模様は、すっきりした「いき」の表現とはならないのが普通である。格子縞に曲線が螺旋状《らせんじょう》に絡《から》み付けられた場合、格子縞は「いき」の多くを失ってしまう。縦縞が全体に波状曲線になっている場合も「いき」を見出すことは稀《まれ》である。直線から成る割菱《わりびし》模様が曲線化して花菱模様に変ずるとき、模様は「派手《はで》」にはなるが「いき」は跡形《あとかた》もなくなる。扇紋《おうぎもん》は畳扇《たたみおうぎ》として直線のみで成立している間は「いき」をもち得ないことはないが、開扇《ひらきおうぎ》として弧《こ》を描くと同時に「いき」は薫《かおり》をさえも留《とど》めない。また、奈良朝以前から見られる唐草《からくさ》模様は蕨手《わらびで》に巻曲した線を有するため、天平《てんぴょう》時代の唐花《からはな》模様も大体曲線から成立しているため、「いき」とは甚だ縁遠いものである。藤原時代の輪違《わちがい》模様、桃山《ももやま》から元禄《げんろく》へかけて流行した丸尽《まるづく》し模様なども同様に曲線であるために「いき」の条件に適合しない。元来、曲線は視線の運動に合致しているため、把握《はあく》が軽易で、眼に快感を与えるものとされている。またこの理由に基づいて、波状線の絶対美を説く者もある。しかし、曲線は、すっきりした、意気地ある「いき」の表現には適しない。「すべての温かいもの、すべての愛は円か楕円《だえん》かの形をもち、螺旋状その他の曲線を描いてゆく。冷たいもの、無関心なもののみが直線で稜《りょう》をもつ。兵隊を縦列に配置しないで環状に組立てたならば、闘争をしないで舞踏《ぶとう》をするであろう{1}」といった者がある。しかし、「いき」のうちには「慮外《りょがい》ながら揚巻《あげまき》で御座《ござ》んす」という、曲線では表わせない峻厳《しゅんげん》なところがある。冷たい無関心がある。「いき」の芸術形式がいわゆる「美的小{2}」と異なった方向に赴《おもむ》くものであることは、これによってもおのずから明白である。

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