フ横縞は特に「いき」である。およそ横縞は場面を広く太く見せるから、肥《ふと》った女は横縞の着物を着るに堪《た》えない。それに反して、すらりと細い女には横縞の着物もよく似合うのである。しかし横縞そのものが縦縞より「いき」であるのではない。全身の基体において既に「いき」の特徴をもった人間が、横縞に背景を提供するときに初めて、横縞が特に「いき」となるのである。第三に、感覚および感情の耐時性と関係している。すなわち、縦縞が感覚および感情にとってあまりに陳腐《ちんぷ》なものとなってしまった場合、換言すれば感覚および感情が縦縞に対して鈍痲《どんま》した場合に、横縞が清新な味をもって特に「いき」と感ぜられることが可能である。最近、流行界における横縞の復興が、横縞のうちに特に「いき」の性質を見させる傾向をもっているのは、主としてこの理由に基づいている。縦縞と横縞との「いき」に対する関係を考察するためには、これら種々の特殊な制約を全く離れて、両者の縞模様としての絶対価値について判断がなされなければならない。なお、縦縞のうちでは万筋《まんすじ》、千筋《せんすじ》の如く細密を極《きわ》めたものや、子持縞《こもちじま》、やたら縞のごとく筋の大小広狭にあまり変化の多いものは、平行線としての二元性が明瞭を欠くために「いき」の効果を十分に奏しない。「いき」であるためには、縞が適宜の荒さと単純さとを備えて、二元性が明晰《めいせき》に把握されることが肝要である。
 垂直の平行線と水平の平行線とが結合した場合は、模様として縦横縞が生じてくる。縦横縞は概して縦縞よりも横縞よりも「いき」でない。平行線の把握が容易の度を減じたからである。縦横縞のうちでも縞の荒いいわゆる碁盤縞《ごばんじま》は「いき」の表現であり得ることがある。しかしそのためには、我々の眼が水平の平行線の障碍《しょうがい》を苦にしないで、垂直の平行線の二元性をひとむきに追うことが必要である。碁盤縞がそのまま左右いずれへか回転して、垂直線と四十五度の角をなして静止した場合、すなわち、垂直の平行線と水平の平行線とが垂直性および水平性を失って共に斜《ななめ》に平行線の二系統を形成する場合、碁盤縞はその具有していた「いき」を失うのを常とする。何故《なぜ》ならば、眼はもはや、平行線の二元性を停滞なく追求することができないで、正面より直視する限りは、系統
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