襟足《えりあし》を見せるところに媚態がある。喜田川守貞《きたがわもりさだ》の『近世風俗志』に「首筋に白粉ぬること一本足と号《い》つて、際立《きわだ》たす」といい、また特に遊女、町芸者の白粉について「頸《くび》は極《きわめ》て濃粧す」といっている。そうして首筋の濃粧は主として抜《ぬ》き衣紋《えもん》の媚態を強調するためであった。この抜き衣紋が「いき」の表現となる理由は、衣紋の平衡を軽く崩し、異性に対して肌への通路をほのかに暗示する点に存している。また、西洋のデコルテのように、肩から胸部と背部との一帯を露出する野暮に陥らないところは、抜き衣紋の「いき」としての味があるのである。
 左褄[#「左褄」に傍点]を取ることも「いき」の表現である。「歩く拍子《ひょうし》に紅《もみ》のはつちと浅黄縮緬《あさぎちりめん》の下帯《したおび》がひらりひらりと見え」とか「肌の雪と白き浴衣《ゆかた》の間にちらつく緋縮緬の湯もじを蹴出《けだ》すうつくしさ」とかは、確かに「いき」の条件に適《かな》っているに相違ない。『春告鳥《はるつげどり》』の中で「入り来《きた》る婀娜者《あだもの》」は「褄《つま》をとつて白き足を見せ」ている。浮世絵師も種々の方法によって脛《はぎ》を露出させている。そうして、およそ裾《すそ》さばきのもつ媚態をほのかな形で象徴化したものがすなわち左褄《ひだりづま》である。西洋近来の流行が、一方には裾を短くしてほとんど膝《ひざ》まで出し、他方には肉色の靴下をはいて錯覚の効果を予期しているのに比して、「ちよいと手がるく褄をとり」というのは、遙《はる》かに媚態としての繊巧《せんこう》を示している。
 素足[#「素足」に傍点]もまた「いき」の表現となる場合がある。「素足《すあし》も、野暮な足袋《たび》ほしき、寒さもつらや」といいながら、江戸芸者は冬も素足を習《ならい》とした。粋者《すいしゃ》の間にはそれを真似《まね》て足袋を履《は》かない者も多かったという。着物に包んだ全身に対して足だけを露出させるのは、確かに媚態の二元性を表わしている。しかし、この着物と素足との関係は、全身を裸にして足だけに靴下または靴を履く西洋風の露骨さと反対の方向を採《と》っている。そこにまた素足の「いき」たる所以《ゆえん》がある。
 手は媚態と深い関係をもっている。「いき」の無関心な遊戯が男を魅惑する「手管《てく
前へ 次へ
全57ページ中30ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
九鬼 周造 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング