だ》」は、単に「手附《てつき》」に存する場合も決して少なくない。「いき」な手附は手を軽く反らせることや曲げること[#「手を軽く反らせることや曲げること」に傍点]のニュアンスのうちに見られる。歌麿の絵のうちには、全体の重心が手一つに置かれているのがある。しかし、更に一歩を進めて、手は顔に次いで、個人の性格を表わし、過去の体験を語るものである。我々はロダンが何故《なにゆえ》にしばしば手だけを作ったかを考えてみなければならぬ。手判断は決して無意味なものではない。指先まで響いている余韻によって魂そのものを判断するのは不可能ではない。そうして、手が「いき」の表現となり得る可能性も畢竟《ひっきょう》この一点に懸《かか》っている。
 以上、「いき」の身体的発表{3}を、特にその視覚的発表を、全身、顔面、頭部、頸《くび》、脛《はぎ》、足、手について考察した。およそ意識現象としての「いき」は、異性に対する二元的|措定《そてい》としての媚態が、理想主義的非現実性によって完成されたものであった。その客観的表現である自然形式の要点は、一元的平衡を軽妙に打破して二元性を暗示するという形を採《と》るものとして闡明《せんめい》された。そうして、平衡を打破して二元性を措定する点に「いき」の質料因たる媚態が表現され、打破の仕方のもつ性格に形相因たる理想主義的非現実性が認められた。

 {1}この問題に関しては、Utitz, Grundlegung der allgemeinen Kunstwissenschaft, 1914, I, S. 74ff. および Volkelt, System der Aesthetik, 1925, III, S. 3f. 参照。
 {2}味覚、嗅覚《きゅうかく》、触覚に関する「いき」は、「いき」の構造を理解するために相当の重要性をもっている。味覚としての「いき」については、次のことがいえる。第一に、「いき」な味とは、味覚が味覚だけで独立したような単純なものではない。米八が『春色《しゅんしょく》恵《めぐみ》の花《はな》』のうちで「そんな色気のないものをたべて」と貶《けな》した「附焼団子《つけやきだんご》」は味覚の効果をほとんど味覚だけに限っている。「いき」な味とは、味覚の上に、例えば「きのめ」や柚《ゆず》の嗅覚や、山椒《さんしょ》や山葵《わさび》の触覚のようなものの加
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