、文化文政が細面《ほそおもて》の瀟洒《しょうしゃ》を善《よ》しとしたことは、それを証している。そうして、その理由が、姿全体の場合と同様の根拠に立っているのはいうまでもない。
 顔面の表情が「いき」なるためには、眼と口と頬とに弛緩と緊張[#「眼と口と頬とに弛緩と緊張」に傍点]とを要する。これも全身の姿勢に軽微な平衡《へいこう》破却《はきゃく》が必要であったのと同じ理由から理解できる。眼[#「眼」に傍点]については、流眄《りゅうべん》が媚態の普通の表現である。流眄、すなわち流し目とは、瞳《ひとみ》の運動によって、媚《こび》を異性にむかって流し遣《や》ることである。その様態化としては、横目、上目《うわめ》、伏目《ふしめ》がある。側面に異性を置いて横目を送るのも媚であり、下を向いて上目ごしに正面の異性を見るのも媚である。伏目もまた異性に対して色気ある恥かしさを暗示する点で媚の手段に用いられる。これらのすべてに共通するところは、異性への運動を示すために、眼の平衡を破って常態を崩すことである。しかし、単に「色目」だけでは未《ま》だ「いき」ではない。「いき」であるためには、なお眼が過去の潤いを想起させるだけの一種の光沢を帯び、瞳はかろらかな諦《あきら》めと凛乎《りんこ》とした張りとを無言のうちに有力に語っていなければならぬ。口[#「口」に傍点]は、異性間の通路としての現実性を具備していることと、運動について大なる可能性をもっていることとに基づいて、「いき」の表現たる弛緩《しかん》と緊張《きんちょう》とを極めて明瞭な形で示し得るものである。「いき」の無目的な目的は、唇《くちびる》の微動のリズムに客観化される。そうして口紅は唇の重要性に印を押している。頬[#「頬」に傍点]は、微笑の音階を司《つかさど》っている点で、表情上重要なものである。微笑としての「いき」は、快活な長音階よりはむしろやや悲調を帯びた短音階を択《えら》ぶのが普通である。西鶴は頬の色の「薄花桜」であることを重要視しているが、「いき」な頬は吉井勇《よしいいさむ》が「うつくしき女なれども小夜子《さよこ》はも凄艶《せいえん》なれば秋にたとへむ」といっているような秋の色を帯びる傾向をもっている。要するに顔面における「いき」の表現は、片目を塞《ふさ》いだり、口部を突出させたり、「双頬《そうきょう》でジャズを演奏する」などの西洋流
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