心をももっていないことはいうまでもない。
 「いき」な姿としては湯上り姿[#「湯上り姿」に傍点]もある。裸体を回想として近接の過去にもち、あっさりした浴衣《ゆかた》を無造作《むぞうさ》に着ているところに、媚態とその形相因とが表現を完《まっと》うしている。「いつも立寄る湯帰りの、姿も粋な」とは『春色辰巳園《しゅんしょくたつみのその》』の米八《よねはち》だけに限ったことではない。「垢抜《あかぬけ》」した湯上り姿は浮世絵にも多い画面である。春信《はるのぶ》も湯上り姿を描いた。それのみならず、既に紅絵《べにえ》時代においてさえ奥村政信《おくむらまさのぶ》や鳥居清満《とりいきよみつ》などによって画かれていることを思えば、いかに特殊の価値をもっているかがわかる。歌麿《うたまろ》も『婦女相学十躰《ふじょそうがくじったい》』の一つとして浴後の女を描くことを忘れなかった。しかるに西洋の絵画では、湯に入っている女の裸体姿は往々あるにかかわらず、湯上り姿はほとんど見出すことができない。
 表情の支持者たる基体についていえば、姿が細っそり[#「姿が細っそり」に傍点]して柳腰であることが、「いき」の客観的表現の一と考え得る。この点についてほとんど狂信的な信念を声明しているのは歌麿である。また、文化文政《ぶんかぶんせい》の美人の典型も元禄《げんろく》美人に対して特にこの点を主張した。『浮世風呂』に「細くて、お綺麗《きれい》で、意気で」という形容詞の一聯がある。「いき」の形相因は非現実的理想性である。一般に非現実性、理想性を客観的に表現しようとすれば、いきおい細長い形を取ってくる。細長い形状は、肉の衰えを示すとともに霊の力を語る。精神自体を表現しようとしたグレコは、細長い絵ばかり描いた。ゴシックの彫刻も細長いことを特徴としている。我々の想像する幽霊も常に細長い形をもっている。「いき」が霊化された媚態である限り、「いき」な姿は細っそりしていなくてはならぬ。
 以上は全身に関する「いき」であったが、なお顔面に関しても、基体としての顔面と、顔面の表情との二方面に「いき」が表現される。基体としての顔面、すなわち顔面の構造の上からは、一般的にいえば丸顔よりも細おもて[#「細おもて」に傍点]の方が「いき」に適合している。「当世顔は少し丸く」と西鶴《さいかく》が言った元禄の理想の豊麗《ほうれい》な丸顔に対して
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