ズムの二元的対立が次高音によって構成された場合に、「いき」の質料因と形相因とが完全に客観化されるのである。しかし、身体的発表としての「いき」の表現の自然形式は視覚[#「視覚」に傍点]において最も明瞭なかつ多様な形で見られる{2}。
 視覚に関する自然形式としての表現とは、姿勢、身振《みぶり》その他を含めた広義の表情と、その表情の支持者たる基体とを指していうのである。まず、全身に関しては、姿勢を軽く崩す[#「姿勢を軽く崩す」に傍点]ことが「いき」の表現である。鳥居清長《とりいきよなが》の絵には、男姿、女姿、立姿、居姿、後姿、前向、横向などあらゆる意味において、またあらゆるニュアンスにおいて、この表情が驚くべき感受性をもって捉《とら》えてある。「いき」の質料因たる二元性としての媚態は、姿体の一元的|平衡《へいこう》を破ることによって、異性へ向う能動性および異性を迎うる受動性を表現する。しかし「いき」の形相因たる非現実的理想性は、一元的平衡の破却に抑制と節度とを加えて、放縦なる二元性の措定《そてい》を妨止《ぼうし》する。「白楊の枝の上で体をゆすぶる」セイレネスの妖態《ようたい》や「サチロス仲間に気に入る」バックス祭尼の狂態、すなわち腰部を左右に振って現実の露骨のうちに演ずる西洋流の媚態は、「いき」とは極めて縁遠い。「いき」は異性への方向をほのかに暗示するものである。姿勢の相称性が打破せらるる場合に、中央の垂直線が、曲線への推移において、非現実的理想主義を自覚することが、「いき」の表現としては重要なことである。
 なお、全身に関して「いき」の表現と見られるのはうすものを身に纏う[#「うすものを身に纏う」に傍点]ことである。「明石《あかし》からほのぼのとすく緋縮緬《ひぢりめん》」という句があるが、明石縮《あかしちぢみ》を着た女の緋の襦袢《じゅばん》が透いて見えることをいっている。うすもののモティーフはしばしば浮世絵にも見られる。そうしてこの場合、「いき」の質料因と形相因との関係が、うすものの透かしによる異性への通路開放と、うすものの覆《おお》いによる通路封鎖として表現されている。メディチのヴェヌスは裸体に加えた両手の位置によって特に媚態を言表しているが、言表の仕方があまりにあからさまに過ぎて「いき」とはいえない。また、巴里《パリ》のルヴューに見る裸体が「いき」に対して何らの関
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