則り川の流を十年も二十年も實驗して築いた堤防である。今の堤防學者の樣に外國で學んで來て、川の地理などには構はないと云ふのとは違つて居る。竹で防げる所は竹で、草で防げる所は草ですると云ふのが徳川時代の堤防築造方でございます。古い堤防は竹が必要な場所がある。其竹を枯してしまへば善くなると云ふ筈は無い。是が爲に堤防が切れて澤山の害を受けたと云ふことは、是は御訴へ申して宜からうと思ふ。それで堤防の竹が斯の如く枯れるばかりでなく、洪水のある地方から御出になつた諸君は能く御承知でございますが、堤防には幅が極まつて居る、高さも極つて居る。然るに此渡良瀬川は明治政府が出來て、明治廿二年以來川床が非常に高くなつたことは是はちやんと分かつて居る。或は六尺高くなつて居るかと思はれる、堤防を六尺高くしなければ水が溢れると云ふことも極つて居る。然るに此の山から押し出して來る所の水が、乾燥して居る川へ一時にドツとやつて參りますから、敢て大水でなくとも水は一時に來る。同じ水でも一時に參りますから多くなる。川の下流の方では未だ洪水と云ふことを知らぬ内に、上手の方の堤防が切れる。此の水の水脚も非常に早くなつた。此に付て
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