あるまいが、得て世間に褒め物の敏腕家《はたらきて》などと言はれるは極めて恐ろしい我まゝ物、外では知らぬ顏に切つて廻せど勤め向きの不平などまで家内へ歸つて當りちらされる、的に成つては隨分つらい事もあらう、なれども彼れほどの良人を持つ身のつとめ、區役所がよひの腰辨當が釜の下を焚きつけて呉るのとは格が違ふ、隨つてやかましくもあらう六づかしくもあろう夫を機嫌の好い樣にとゝのへて行くが妻の役、表面《うはべ》には見えねど世間の奧樣といふ人達の何れも面白くをかしき中ばかりは有るまじ、身一つと思へば恨みも出る、何の是れが世の勤めなり、殊には是れほど身がらの相違もある事なれば人一倍の苦もある道理、お袋などが口廣い事は言へど亥之が昨今の月給に有ついたも必竟は原田さんの口入れではなからうか、七光《なゝひかり》どころか十光《とひかり》もして間接《よそ》ながらの恩を着ぬとは言はれぬに愁らからうとも一つは親の爲弟の爲、太郎といふ子もあるものを今日までの辛棒がなるほどならば、是れから後とて出來ぬ事はあるまじ、離縁を取つて出たが宜いか、太郎は原田のもの、其方は齋藤の娘、一度縁が切れては二度と顏見にゆく事もなるまじ、同じく不運に泣くほどならば原田の妻で大泣ォに泣け、なあ關さうでは無いか、合點がいつたら何事も胸に納めて知らぬ顏に今夜は歸つて、今まで通りつゝしんで世を送つて呉れ、お前が口に出さんとても親も察しる弟《おとゝ》も察しる、涙は各自《てんで》に分て泣かうぞと因果を含めてこれも目を拭ふに、阿關はわつと泣いて夫れでは離縁をといふたも我まゝで御座りました、成程太郎に別れて顏も見られぬ樣にならば此世に居たとて甲斐もないものを、唯目の前の苦をのがれたとて何うなる物で御座んせう、ほんに私さへ死んだ氣にならば三方四方波風たゝず、兎もあれ彼の子も兩親の手で育てられまするに、つまらぬ事を思ひ寄まして、貴君にまで嫌やな事をお聞かせ申しました、今宵限り關はなくなつて魂一つが彼の子の身を守るのと思ひますれば良人のつらく當る位百年も辛棒出來さうな事、よく御言葉も合點が行きました、もう此樣な事は御聞かせ申しませぬほどに心配をして下さりますなとて拭ふあとから又涙、母親は聲たてゝ何といふ此娘は不仕合と又一しきり大泣きの雨、くもらぬ月も折から淋しくて、うしろの土手の自然生《しぜんばえ》を弟の亥之が折て來て、瓶にさしたる薄の穗の招く手振りも哀れなる夜なり。
實家は上野の新坂下《しんざかした》、駿河臺への路なれば茂れる森の木の下暗《したやみ》佗しけれど、今宵は月もさやかなり、廣小路へ出づれば晝も同樣、雇ひつけの車宿とて無き家なれば路ゆく車を窓から呼んで、合點が行つたら兎も角も歸れ、主人《あるじ》の留守に斷なしの外出、これを咎められるとも申譯の詞は有るまじ、少し時刻は遲れたれど車ならばつひ一ト飛、話しは重ねて聞きに行かう、先づ今夜は歸つて呉れとて手を取つて引出すやうなるも事あら立てじの親の慈悲、阿關はこれまでの身と覺悟してお父樣、お母樣、今夜の事はこれ限り、歸りまするからは私は原田の妻なり、良人を誹《そし》るは濟みませぬほどに最う何も言ひませぬ、關は立派な良人を持つたので弟の爲にも好い片腕、あゝ安心なと喜んで居て下されば私は何も思ふ事は御座んせぬ、決して決して不了簡など出すやうな事はしませぬほどに夫れも案じて下さりますな、私の身體は今夜をはじめに勇のものだと思ひまして、彼の人の思ふまゝに何となりして貰ひましよ、夫では最う私は戻ります、亥之さんが歸つたらば宜しくいふて置いて下され、お父樣もお母樣も御機嫌よう、此次には笑ふて參りまするとて是非なさゝうに立あがれば、母親は無けなしの巾着さげて出て駿河臺まで何程《いくら》でゆくと門なる車夫に聲をかくるを、あ、お母樣それは私がやりまする、有がたう御座んしたと温順《おとな》しく挨拶して、格子戸くゞれば顏に袖、涙をかくして乘り移る哀れさ、家には父が咳拂ひの是れもうるめる聲成し。
下
さやけき月に風のおと添ひて、虫の音たえ/″\に物がなしき上野へ入りてよりまだ一町もやう/\と思ふに、いかにしたるか車夫はぴつたりと轅《かぢ》を止めて、誠に申かねましたが私はこれで御免を願ひます、代は入りませぬからお下りなすつてと突然《だしぬけ》にいはれて、思ひもかけぬ事なれば阿關は胸をどつきりとさせて、あれお前そんな事を言つては困るではないか、少し急ぎの事でもあり増しは上げやうほどに骨を折つてお呉れ、こんな淋しい處では代りの車も有るまいではないか、それはお前人困らせといふ物、愚圖らずに行つてお呉れと少しふるへて頼むやうに言へば、増しが欲しいと言ふのでは有ませぬ、私からお願ひです何うぞお下りなすつて、最う引くのが厭やに成つたので御座りますと言ふに、夫ではお前加減
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