十三夜
樋口一葉
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)例《いつも》は
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)我|良人《つま》のもとに
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「口+多」、第3水準1−15−2]《たら》しも
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)やれ/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
−−
上
例《いつも》は威勢よき黒ぬり車の、それ門に音が止まつた娘ではないかと兩親《ふたおや》に出迎はれつる物を、今宵は辻より飛のりの車さへ歸して悄然《しよんぼり》と格子戸の外に立てば、家内《うち》には父親が相かはらずの高聲、いはゞ私《わし》も福人の一人、いづれも柔順《おとな》しい子供を持つて育てるに手は懸らず人には褒められる、分外の慾さへ渇かねば此上に望みもなし、やれ/\有難い事と物がたられる、あの相手は定めし母樣《はゝさん》、あゝ何も御存じなしに彼のやうに喜んでお出遊ばす物を、何の顏さげて離縁状もらふて下されと言はれた物か、叱かられるは必定、太郎といふ子もある身にて置いて驅け出して來るまでには種々《いろ/\》思案もし盡しての後なれど、今更にお老人《としより》を驚かして是れまでの喜びを水の泡にさせまする事つらや、寧《いつ》そ話さずに戻ろうか、戻れば太郎の母と言はれて何時/\までも原田の奧樣、御兩親に奏任《そうにん》の聟がある身と自慢させ、私さへ身を節儉《つめ》れば時たまはお口に合ふ者お小遣ひも差あげられるに、思ふまゝを通して離縁とならは太郎には繼母の憂き目を見せ、御兩親には今までの自慢の鼻にはかに低くさせまして、人の思はく、弟の行末、あゝ此身一つの心から出世の眞も止めずはならず、戻らうか、戻らうか、あの鬼のやうな我|良人《つま》のもとに戻らうか、彼の鬼の、鬼の良人のもとへ、ゑゝ厭や厭やと身をふるはす途端、よろ/\として思はず格子にがたりと音さすれば、誰れだと大きく父親の聲、道ゆく惡太郎の惡戲とまがへてなるべし。
外なるはおほゝと笑ふて、お父樣《とつさん》私で御座んすといかにも可愛き聲、や、誰れだ、誰れであつたと障子を引明けて、ほうお關か、何だな其樣な處に立つて居て、何うして又此おそくに出かけて來た、車もなし、女中も連れずか、やれ/\ま早く中へ這入れ、さあ這入れ、何うも不意に驚かされたやうでまご/\するわな、格子は閉めずとも宜い、私《わ》しが閉める、兎も角も奧が好い、ずつとお月樣のさす方へ、さ、蒲團へ乘れ、蒲團へ、何うも疊が汚ないので大屋に言つては置いたが職人の都合があると言ふてな、遠慮も何も入らない着物がたまらぬから夫れを敷ひて呉れ、やれ/\何うして此遲くに出て來たお宅《うち》では皆お變りもなしかと例《いつ》に替らずもてはやさるれば、針の席《むしろ》にのる樣にて奧さま扱かひ情なくじつと涕を呑込んで、はい誰れも時候の障りも御座りませぬ、私は申譯のない御無沙汰して居りましたが貴君もお母樣《つかさん》も御機嫌よくいらつしやりますかと問へば、いや最う私は嚏《くさみ》一つせぬ位、お袋は時たま例の血の道と言ふ奴を始めるがの、夫れも蒲團かぶつて半日も居ればけろ/\[#「けろ/\」に傍点]とする病だから子細はなしさと元氣よく呵々《から/\》と笑ふに、亥之《ゐの》さんが見えませぬが今晩は何處へか參りましたか、彼の子も替らず勉強で御座んすかと問へば、母親はほた/\として茶を進めながら、亥之は今しがた夜學に出て行ました、あれもお前お蔭さまで此間は昇給させて頂いたし、課長樣が可愛がつて下さるので何れ位心丈夫であらう、是れと言ふも矢張原田さんの縁引《えん》が有るからだとて宅では毎日いひ暮して居ます、お前に如才は有るまいけれど此後とも原田さんの御機嫌の好いやうに、亥之は彼の通り口の重い質だし何れお目に懸つてもあつけ[#「あつけ」に傍点]ない御挨拶よりほか出來まいと思はれるから、何分ともお前が中に立つて私どもの心が通じるやう、亥之が行末をもお頼み申て置てお呉れ、ほんに替り目で陽氣が惡いけれど太郎さんは何時も惡戲《おいた》をして居ますか、何故に今夜は連れてお出でない、お祖父さんも戀しがつてお出なされた物をと言はれて、又今更にうら悲しく、連れて來やうと思ひましたけれど彼の子は宵まどひで最う疾うに寐ましたから其まゝ置いて參りました、本當に惡戲ばかりつのりまして聞わけとては少しもなく、外へ出れば跡を追ひまするし、家内《うち》に居れば私の傍ばつかり覘ふて、ルんに/\手が懸つて成ませぬ、何故彼樣で御座りませうと言ひかけて思ひ出しの涙むねの中に漲るやうに、思ひ切つ
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