て置いては來たれど今頃は目を覺して母さん母さんと婢女《をんな》どもを迷惑がらせ、煎餅《おせん》やおこしの※[#「口+多」、第3水準1−15−2]《たら》しも利かで、皆々手を引いて鬼に喰はすと威《おど》かしてゞも居やう、あゝ可愛さうな事をと聲たてゝも泣きたきを、さしも兩親《ふたおや》の機嫌よげなるに言ひ出かねて、烟にまぎらす烟草二三服、空咳こん/\として涙を襦袢の袖にかくしぬ。
今宵は舊暦の十三夜、舊弊なれどお月見の眞似事に團子《いし/\》をこしらへてお月樣にお備へ申せし、これはお前も好物なれば少々なりとも亥之助に持たせて上やうと思ふたけれど、亥之助も何か極りを惡がつて其樣な物はお止《よし》なされと言ふし、十五夜にあげなんだから片月見に成つても惡るし、喰べさせたいと思ひながら思ふばかりで上る事が出來なんだに、今夜來て呉れるとは夢の樣な、ほんに心が屆いたのであらう、自宅《うち》で甘い物はいくらも喰べやうけれど親のこしらいたは又別物、奧樣氣を取すてゝ今夜は昔しのお關になつて、外見《みえ》を構はず豆なり栗なり氣に入つたを喰べて見せてお呉れ、いつでも父樣と噂すること、出世は出世に相違なく、人の見る目も立派なほど、お位の宜い方々や御身分のある奧樣がたとの御交際《おつきあひ》もして、兎も角も原田の妻と名告《なのつ》て通るには氣骨の折れる事もあらう、女子《をんな》どもの使ひやう出入りの者の行渡り、人の上に立つものは夫れ丈に苦勞が多く、里方が此樣な身柄では猶更のこと人に侮られぬやうの心懸けもしなければ成るまじ、夫れを種々《さま/″\》に思ふて見ると父さんだとて私だとて孫なり子なりの顏の見たいは當然《あたりまへ》なれど、餘りうるさく出入りをしてはと控へられて、ほんに御門の前を通る事はありとも木綿着物に毛繻子の洋傘《かうもり》さした時には見す/\お二階の簾を見ながら、吁《あゝ》お關は何をして居る事かと思ひやるばかり行過ぎて仕舞まする、實家でも少し何とか成つて居たならばお前の肩身も廣からうし、同じくでも少しは息のつけやう物を、何を云ふにも此通り、お月見の團子をあげやうにも重箱《おぢう》からしてお恥かしいでは無からうか、ほんにお前の心遣ひが思はれると嬉しき中にも思ふまゝの通路が叶はねば、愚痴の一トつかみ賤しき身分を情なげに言はれて、本當に私は親不孝だと思ひまする、それは成程|和《やは》らかひ衣服《きもの》きて手車に乘りあるく時は立派らしくも見えませうけれど、父さんや母さんに斯うして上やうと思ふ事も出來ず、いはゞ自分の皮一重、寧そ賃仕事してもお傍で暮した方が餘つぽど快よう御座いますと言ひ出すに、馬鹿、馬鹿、其樣な事を假にも言ふてはならぬ、嫁に行つた身が實家《さと》の親の貢をするなどゝ思ひも寄らぬこと、家に居る時は齋藤の娘、嫁入つては原田の奧方ではないか、勇さんの氣に入る樣にして家の内を納めてさへ行けば何の子細ヘ無い、骨が折れるからとて夫れ丈の運のある身ならば堪へられぬ事は無い筈、女などゝ言ふ者は何うも愚痴で、お袋などが詰らぬ事を言ひ出すから困り切る、いや何うも團子を喰べさせる事が出來ぬとて一日大立腹であつた、大分熱心で調製《こしらへ》たものと見えるから十分に喰べて安心させて遣つて呉れ、餘程|甘《うま》からうぞと父親の滑稽《おどけ》を入れるに、再び言ひそびれて御馳走の栗枝豆ありがたく頂戴をなしぬ。
嫁入りてより七年の間、いまだに夜に入りて客に來しこともなく、土産もなしに一人|歩行《あるき》して來るなど悉皆《しつかい》ためしのなき事なるに、思ひなしか衣類も例《いつも》ほど燦《きらびや》かならず、稀に逢ひたる嬉しさに左のみは心も付かざりしが、聟よりの言傳とて何一言の口上もなく、無理に笑顏は作りながら底に萎れし處のあるは何か子細のなくては叶はず、父親は机の上の置時計を眺めて、こりやモウ程なく十時になるが關は泊つて行つて宜いのかの、歸るならば最う歸らねば成るまいぞと氣を引いて見る親の顏、娘は今更のやうに見上げて御父樣私は御願ひがあつて出たので御座ります、何うぞ御聞遊ばしてと屹となつて疊に手を突く時、はじめて一トしづく幾層《いくそ》の憂きを洩らしそめぬ。
父は穩かならぬ色を動かして、改まつて何かのと膝を進めれば、私は今宵限り原田へ歸らぬ決心で出て參つたので御座ります、勇が許しで參つたのではなく、彼の子を寐かして、太郎を寐かしつけて、最早あの顏を見ぬ決心で出て參りました、まだ私の手より外誰れの守りでも承諾《しようち》せぬほどの彼の子を、欺して寐かして夢の中に、私は鬼に成つて出て參りました、御父樣、御母樣、察して下さりませ私は今日まで遂ひに原田の身に就いて御耳に入れました事もなく、勇と私との中を人に言ふた事は御座りませぬけれど、千度《ちたび》も百度《もゝたび》も考
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