でも惡るいか、まあ何うしたといふ譯、此處まで挽《ひ》いて來て厭やに成つたでは濟むまいがねと聲に力を入れて車夫を叱れば、御免なさいまし、もう何うでも厭やに成つたのですからとて提燈を持しまゝ不圖脇へのかれて、お前は我まゝの車夫《くるまや》さんだね、夫ならば約定《きめ》の處までとは言ひませぬ、代りのある處まで行つて呉れゝば夫でよし、代はやるほどに何處か※[#「研のつくり」、第3水準1−84−17]邊《そこ》らまで、切めて廣小路までは行つてお呉れと優しい聲にすかす樣にいへば、成るほど若いお方ではあり此淋しい處へおろされては定めしお困りなさりませう、これは私が惡う御座りました、ではお乘せ申ませう、お供を致しませう、嘸お驚きなさりましたろうとて惡者《わる》らしくもなく提燈を持かゆるに、お關もはじめて胸をなで、心丈夫に車夫の顏を見れば二十五六の色黒く、小男の痩せぎす、あ、月に背けたあの顏が誰れやらで有つた、誰れやらに似て居ると人の名も咽元まで轉がりながら、もしやお前さんはと我知らず聲をかけるに、ゑ、と驚いて振あふぐ男、あれお前さんは彼のお方では無いか、私をよもやお忘れはなさるまいと車より濘《すべ》るやうに下りてつく/″\と打まもれば、貴孃《あなた》は齋藤の阿關さん、面目も無い此樣《こん》な姿《なり》で、背後《うしろ》に目が無ければ何の氣もつかずに居ました、夫れでも音聲《ものごゑ》にも心づくべき筈なるに、私は餘程の鈍に成りましたと下を向いて身を恥れば、阿關は頭《つむり》の先より爪先まで眺めていゑ/\私だとて往來で行逢ふた位ではよもや貴君と氣は付きますまい、唯た今の先まで知らぬ他lの車夫さんとのみ思ふて居ましたに御存じないは當然《あたりまへ》、勿體ない事であつたれど知らぬ事なればゆるして下され、まあ何時から此樣な業《こと》して、よく其か弱い身に障りもしませぬか、伯母さんが田舍へ引取られてお出なされて、小川町《をがはまち》のお店をお廢めなされたといふ噂は他處《よそ》ながら聞いても居ましたれど、私も昔しの身でなければ種々《いろ/\》と障る事があつてな、お尋ね申すは更なること手紙あげる事も成ませんかつた、今は何處に家を持つて、お内儀さんも御健勝《おまめ》か、小兒《ちツさい》のも出來てか、今も私は折ふし小川町の勸工場|見物《み》に行まする度々、舊のお店がそつくり其儘同じ烟草店の能登《のと》やといふに成つて居まするを、何時通つても覗かれて、あゝ高坂《かうさか》の録《ろく》さんが子供であつたころ、學校の行返《ゆきもど》りに寄つては卷烟草のこぼれを貰ふて、生意氣らしう吸立てた物なれど今は何處に何をして、氣の優しい方なれば此樣な六づかしい世に何のやうの世渡りをしてお出ならうか、夫れも心にかゝりまして、實家へ行く度に御樣子を、もし知つても居るかと聞いては見まするけれど、猿樂町を離れたのは今で五年の前、根つからお便りを聞く縁がなく、何んなにお懷しう御座んしたらうと我身のほどをも忘れて問ひかくれば、男は流れる汗を手拭にぬぐふて、お恥かしい身に落まして今は家と言ふ物も御座りませぬ、寢處は淺草町の安宿、村田といふが二階に轉がつて、氣に向ひた時は今夜のやうに遲くまで挽く事もありまするし、厭やと思へば日がな一日ごろ/\として烟のやうに暮して居まする、貴孃《あなた》は相變らずの美くしさ、奧樣にお成りなされたと聞いた時から夫でも一度は拜む事が出來るか、一生の内に又お言葉を交はす事が出來るかと夢のやうに願ふて居ました、今日までは入用のない命と捨て物に取あつかふて居ましたけれど命があればこその御對面、あゝ宜く私を高坂の録之助と覺えて居て下さりました、辱《かたじけ》なう御座りますと下を向くに、阿關はさめ/″\として誰れも憂き世に一人と思ふて下さるな。
してお内儀さんはと阿關の問へば、御存じで御座りましよ筋向ふの杉田やが娘、色が白いとか恰好が何うだとか言ふて世間の人は暗雲《やみくも》に褒めたてた女《もの》で御座ります、私が如何にも放蕩《のら》をつくして家へとては寄りつかぬやうに成つたを、貰ふべき頃に貰はぬからだと親類の中の解らずやが勘違ひして、彼れならばと母親が眼鏡にかけ、是非もらへ、やれ貰へと無茶苦茶に進めたてる五月蠅《うるさ》さ、何うなりと成れ、成れ、勝手に成れとて彼れを家へ迎へたは丁度貴孃が御懷妊だと聞ました時分の事、一年目には私が處にもお目出たうを他人からは言はれて、犬張子《いぬはりこ》や風車を並べたてる樣に成りましたれど、何のそんな事で私が放蕩のやむ事か、人は顏の好い女房を持たせたら足が止まるか、子が生れたら氣が改まるかとも思ふて居たのであらうなれど、たとへ小町と西施《せいし》と手を引いて來て、衣通姫《そとほりひめ》が舞を舞つて見せて呉れても私の放蕩は直らぬ事に極めて置いた
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