しいが有るでは無し、我《わし》が欲しくて我が貰ふに身分も何も言ふ事はない、稽古は引取つてからでも充分させられるから其心配も要らぬ事、兎角くれさへすれば大事にして置かうからと夫は夫は火のつく樣に催促して、此方から強請《ねだつ》た譯ではなけれど支度まで先方《さき》で調へて謂はゞ御前は戀女房、私や父樣が遠慮して左のみは出入りをせぬといふも勇さんの身分を恐れてゞは無い、これが妾《めかけ》手《て》かけに出したのではなし正當《しやうたう》にも正當にも百まんだら頼みによこして貰つて行つた嫁の親、大威張に出這入しても差つかへは無けれど、彼方が立派にやつて居るに、此方が此通りつまらぬ活計《くらし》をして居れば、お前の縁にすがつて聟の助力《たすけ》を受けもするかと他人樣の處思《おもはく》が口惜しく、痩せ我慢では無けれど交際だけは御身分相應に盡して、平常は逢いたい娘の顏も見ずに居まする、夫れをば何の馬鹿々々しい親なし子でも拾つて行つたやうに大層らしい、物が出來るの出來ぬのと宜く其樣な口が利けた物、默つて居ては際限もなく募つて夫れは夫れは癖に成つて仕舞ひます、第一は婢女どもの手前奧樣の威光が削げて、末には御前の言ふ事を聞く者もなく、太郎を仕立るにも母樣を馬鹿にする氣になられたら何としまする、言ふだけの事は屹度言ふて、それが惡るいと小言をいふたら何の私にも家が有ますとて出て來るが宜からうでは無いか、實《ほん》に馬鹿々々しいとつては夫れほどの事を今?ェ日まで默つて居るといふ事が有ります物か、餘り御前が温順し過るから我儘がつのられたのであろ、聞いた計でも腹が立つ、もう/\退けて居るには及びません、身分が何であらうが父もある母もある、年はゆかねど亥之助といふ弟もあればその樣な火の中にじつとして居るには及ばぬこと、なあ父樣一遍勇さんに逢ふて十分油を取つたら宜う御座りましよと母は猛つて前後もかへり見ず。
 父《てゝ》親は先刻《さきほど》より腕ぐみして目を閉ぢて有けるが、あゝ御袋、無茶の事を言ふてはならぬ、我しさへ初めて聞いて何うした物かと思案にくれる、阿關の事なれば並大底で此樣な事を言ひ出しさうにもなく、よく/\愁《つ》らさに出て來たと見えるが、して今夜は聟どのは不在《るす》か、何か改たまつての事件でもあつてか、いよ/\離縁するとでも言はれて來たのかと落ついて問ふに、良人は一昨日より家へとては歸られませぬ、五日六日と家を明けるは平常《つね》の事、左のみ珍らしいとは思ひませぬけれど出際に召物の揃へかたが惡いとて如何ほど詫びても聞入れがなく、其品《それ》をば脱いで擲《たゝ》きつけて、御自身洋服にめしかへて、吁《あゝ》、私《わし》位不仕合の人間はあるまい、御前のやうな妻を持つたのはと言ひ捨てに出て御出で遊ばしました、何といふ事で御座りませう一年三百六十五日物いふ事も無く、稀々言はれるは此樣な情ない詞をかけられて、夫れでも原田の妻と言はれたいか、太郎の母で候と顏おし拭つて居る心か、我身ながら我身の辛棒がわかりませぬ、もう/\もう私は良人《つま》も子も御座んせぬ嫁入せぬ昔しと思へば夫れまで、あの頑是ない太郎の寢顏を眺めながら置いて來るほどの心になりましたからは、最う何うでも勇の傍に居る事は出來ませぬ、親はなくとも子は育つと言ひまするし、私の樣な不運の母の手で育つより繼母御なり御手かけなり氣に適ふた人に育てゝ貰ふたら、少しは父御も可愛がつて後々あの子の爲にも成ませう、私はもう今宵かぎり何うしても歸る事は致しませぬとて、斷つても斷てぬ子の可憐《かわゆ》さに、奇麗に言へども詞はふるへぬ。
 父は歎息して、無理は無い、居愁らくもあらう、困つた中に成つたものよと暫時阿關の顏を眺めしが、大丸髷に金輪の根を卷きて黒縮緬の羽織何の惜しげもなく、我が娘ながらいつしか調ふ奧樣風、これをば結び髮に結ひかへさせて綿銘仙の半天《はんてん》に襷《たすき》がけの水仕業さする事いかにして忍ばるべき、太郎といふ子もあるものなり、一端の怒りに百年の運を取はづして、人には笑はれものとなり、身はいにしへの齋藤主計《さいとうかずへ》が娘に戻らば、泣くとも笑ふとも再度原田太郎が母とは呼ばるゝ事成るべきにもあらず、良人に未練は殘さずとも我が子の愛の斷ちがたくば離れていよ/\物をも思ふべく、今の苦勞を戀しがる心も出づべし、斯く形よく生れたる身の不幸《ふしやはせ》、不相應の縁につながれて幾らの苦勞をさする事と哀れさの増れども、いや阿關こう言ふと父が無慈悲で汲取つて呉れぬのと思ふか知らぬが決して御前を叱るではない、身分が釣合はねば思ふ事も自然違ふて、此方は眞から盡す氣でも取りやうに寄つては面白くなく見える事もあらう、勇さんだからとて彼《あ》の通り物の道理を心得た、利發の人ではあり隨分學者でもある、無茶苦茶にいぢめ立る譯では
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