曲《ま》ぐる口元の愛らしさ、肥えたる腮《あご》の二重《ふたへ》なるなど、かかる人さへある身にて、我れは二《ふ》タ心《ごゝろ》を持ちて済むべきや。夢さら二タ心は持たぬまでも、我が良人《おつと》を不足に思ひて済むべきや。はかなし、はかなし、桜町の名を忘れぬ限り、我れは二タ心の不貞の女子《おなご》なり」
児《ちご》を静かに寝床にうつして、女子《をなご》はやをら立《たち》あがりぬ。眼《め》ざし定《さだ》まりて口元かたく結びたるまゝ、畳の破れに足も取られず、心ざすは何物ぞ。葛籠《つゞら》の底に納めたりける一二枚《いちにまい》の衣《きぬ》を打《うち》かへして、浅黄《あさぎ》ちりめんの帯揚《おびあげ》のうちより、五|通《つう》六通、数ふれば十二|通《つう》の文《ふみ》を出《いだ》して旧《もと》の座へ戻《もど》れば、蘭燈《らんとう》のかげ少し暗きを、捻《ね》ぢ出《いだ》す手もとに見ゆるは殿の名。「よし匿名《かくしな》なりとも、この眼《め》に感じは変るまじ。今日まで封じを解かざりしは、我れながら心強しと誇りたる浅《あさ》はかさよ。胸のなやみに射る矢のおそろしく、思へば卑怯《ひきよう》の振舞《ふるまひ》
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