、今の母は父親が上役なりし人の隱し妻とやらお妾とやら、種々《さま/″\》曰くのつきし難物のよしなれども、持ねばならぬ義理ありて引うけしにや、それとも父が好みて申受しか、その邊たしかならねど勢力おさ/\女房天下と申やうな景色なれば、まゝ子たる身のおぬひが此瀬に立ちて泣くは道理なり、もの言へば睨まれ、笑へば怒られ、氣を利かせれば小ざかしと云ひ、ひかえ目にあれば鈍な子と叱かられる、二葉の新芽に雪霜のふりかゝりて、これでも延びるかと押へるやうな仕方に、堪へて眞直ぐに延びたつ事人間わざには叶ふまじ、泣いて泣いて泣き盡くして、訴へたいにも父の心は鐵《かね》のやうに冷えて、ぬる湯一杯たまはらん情もなきに、まして他人の誰れにか慨《かこ》つべき、月の十日に母さまが御墓まゐりを谷中《やなか》の寺に樂しみて、しきみ線香夫々の供へ物もまだ終らぬに、母さま母さま私を引取つて下されと石塔に抱きつきて遠慮なき熱涙、苔のしたにて聞かば石もゆるぐべし、井戸がはに手を掛て水をのぞきし事三四度に及びしが、つく/″\思へば無情《つれなし》とても父樣は眞實《まこと》のなるに、我れはかなく成りて宜からぬ名を人の耳に傳へれば、殘れる耻は誰が上ならず、勿躰なき身の覺悟と心の中に詫言《わびごと》して、どうでも死なれぬ世に生中目を明きて過ぎんとすれば、人並のうい事つらい事、さりとは此身に堪へがたし、一生五十年めくらに成りて終らば事なからんと夫れよりは一筋に母樣の御機嫌、父が氣に入るやう一切この身を無いものにして勤むれば家の内なみ風おこらずして、軒ばの松に鶴が來て巣をくひはせぬか、これを世間の目に何と見るらん、母御は世辭上手にて人を外らさぬ甘《うま》さあれば、身を無いものにして闇をたどる娘よりも、一枚あがりて、評判わるからぬやら。
お縫とてもまだ年わかなる身の桂次が親切はうれしからぬに非ず、親にすら捨てられたらんやうな我が如きものを、心にかけて可愛がりて下さるは辱けなき事と思へども、桂次が思ひやりに比べては遙かに落つきて冷やかなる物なり、おぬひさむ我れがいよ/\歸國したと成つたならば、あなたは何と思ふて下さろう、朝夕の手がはぶけて、厄介が減つて、樂になつたとお喜びなさろうか、夫れとも折ふしは彼の話し好きの饒舌《おしやべり》のさわがしい人が居なくなつたで、少しは淋しい位に思ひ出して下さろうか、まあ何と思ふてお出なさると此樣《こん》な事を問ひかけるに、仰しやるまでもなく、どんなに家中が淋しく成りましよう、東京《こゝ》にお出あそばしてさへ、一ト月も下宿に出て入らつしやる頃は日曜が待どほで、朝の戸を明けるとやがて御足おとが聞えはせぬかと存じまする物を、お國へお歸りになつては容易に御出京もあそばすまじければ、又どれほどのお別れに成りまするやら、夫れでも鐵道が通ふやうに成りましたら度々御出あそばして下さりませうか、そうならば嬉しけれどゝ言ふ、我れとても行きたくてゆく故郷でなければ、此處に居られる物なら歸るではなく、出て來られる都合ならば又今までのやうにお世話に成りに來まする、成るべくは鳥渡《ちよつと》たち歸りに直ぐも出京したきものと輕くいへば、それでもあなたは一家の御主人さまに成りて采配をおとりなさらずは叶ふまじ、今までのやうなお樂の御身分ではいらつしやらぬ筈と押へられて、されば誠に大難に逢ひたる身と思しめせ。
我が養家は大藤村の中萩原とて、見わたす限りは天目山、大菩薩峠の山々峯々垣をつくりて、西南にそびゆる白妙の富士の嶺は、をしみて面かげを示めさねども冬の雪おろしは遠慮なく身をきる寒さ、魚といひては甲府まで五里の道を取りにやりて、やう/\※[#「澁」の「さんずい」に代えて「魚」、第4水準2−93−77]《まぐろ》の刺身が口に入る位、あなたは御存じなけれどお親父《とつ》さんに聞て見給へ、それは隨分不便利にて不潔にて、東京より歸りたる夏分などは我まんのなりがたき事もあり、そんな處に我れは括《くゝ》られて、面白くもない仕事に追はれて、逢ひたい人には逢はれず、見たい土地はふみ難く、兀々《こつ/\》として月日を送らねばならぬかと思に、氣のふさぐも道理とせめては貴孃《あなた》でもあはれんでくれ給へ、可愛さうなものでは無きかと言ふに、あなたは左樣仰しやれど母などはお浦山しき御身分と申て居りまする。
何が此樣な身分うら山しい事か、こゝで我れが幸福《しやわせ》といふを考へれば、歸國するに先だちてお作が頓死するといふ樣なことにならば、一人娘のことゆゑ父親《てゝおや》おどろいて暫時は家督沙汰やめになるべく、然るうちに少々なりともやかましき財産などの有れば、みすみす他人なる我れに引わたす事をしくも成るべく、又は縁者の中なる欲ばりども唯にはあらで運動することたしかなり、その曉に何かいさゝか仕損なゐでもこしらゆ
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