ゆく雲
樋口一葉
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)酒折《さかをり》の
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)馬車|腕車《くるま》に
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「研のつくり」、第3水準1−84−17]處《そこ》
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)もと/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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上
酒折《さかをり》の宮、山梨の岡、鹽山、裂石《さけいし》、さし手の名も都人《こゝびと》の耳に聞きなれぬは、小佛《こぼとけ》さゝ子《ご》の難處を越して猿橋のながれに眩《めくる》めき、鶴瀬《つるせ》、駒飼《こまかひ》見るほどの里もなきに、勝沼の町とても東京《こゝ》にての場末ぞかし、甲府は流石に大厦《たいか》高樓、躑躅《つゝじ》が崎の城跡など見る處のありとは言へど、汽車の便りよき頃にならば知らず、こと更の馬車|腕車《くるま》に一晝夜をゆられて、いざ惠林寺《ゑりんじ》の櫻見にといふ人はあるまじ、故郷《ふるさと》なればこそ年々の夏休みにも、人は箱根伊香保ともよふし立つる中を、我れのみ一人あし曳の山の甲斐に峯のしら雲あとを消すこと左りとは是非もなけれど、今歳この度みやこを離れて八王子に足をむける事これまでに覺えなき愁《つ》らさなり。
養父清左衞門、去歳《こぞ》より何處|※[#「研のつくり」、第3水準1−84−17]處《そこ》からだに申分ありて寐つ起きつとの由は聞きしが、常日頃すこやかの人なれば、さしての事はあるまじと醫者の指圖などを申しやりて、此身は雲井の鳥の羽がひ自由なる書生の境界《きやうがい》に今しばしは遊ばるゝ心なりしを、先きの日故郷よりの便りに曰く、大旦那さまこと其後の容躰さしたる事は御座なく候へ共、次第に短氣のまさりて我意《わがまゝ》つよく、これ一つは年の故には御座候はんなれど、隨分あたりの者御機げんの取りにくゝ、大心配を致すよし、私など古狸の身なれば兎角つくろひて一日二日と過し候へ共、筋のなきわからずやを仰せいだされ、足もとから鳥の立つやうにお急きたてなさるには大閉口に候、此中《このぢう》より頻に貴君樣を御手もとへお呼び寄せなさり度、一日も早く家督相續あそばさせ、樂隱居なされ度おのぞみのよし、これ然るべき事と御親類一同の御決義、私は初手から貴君樣を東京へお出し申すは氣に喰はぬほどにて、申しては失禮なれどいさゝかの學問など何うでも宜い事、赤尾の彦が息子のやうに氣ちがひに成つて歸つたも見て居り候へば、もと/\利發の貴君樣に其氣づかひはあるまじきなれど、放蕩ものにでもお成りなされては取返しがつき申さず、今の分にて孃さまと御祝言、御家督引つぎ最はや早きお歳にはあるまじくと大賛成に候、さだめしさだめし其地には遊しかけの御用事も御座候はん夫れ等を然るべく御取まとめ、飛鳥もあとを濁ごすなに候へば、大藤の大盡が息子と聞きしに野澤《のざは》の桂次《けいじ》は了簡の清くない奴、何處やらの割前《わりまへ》を人に背負せて逃げをつたなどゝ斯ふいふ噂があと/\に殘らぬやう、郵便爲替にて證書面のとほりお送り申候へども、足りずば上杉さまにて御立かへを願ひ、諸事|清潔《きれい》にして御歸りなさるべく、金故に恥ぢをお掻きなされては金庫の番をいたす我等が申わけなく候、前申せし通り短氣の大旦那さま頻《しきり》に待ちこがれて大ぢれに御座候へば、其地の御片つけすみ次第、一日もはやくと申納候、六藏といふ通ひ番頭の筆にて此樣の迎ひ状いやとは言ひがたし。
家に生拔《はえぬ》きの我れ實子にてもあらば、かゝる迎へのよしや十度十五たび來たらんとも、おもひ立ちての修業なれば一ト廉の學問を研《みが》かぬほどは不孝の罪ゆるし給へとでもいひやりて、其我まゝの徹らぬ事もあるまじきなれど、愁らきは養子の身分と桂次はつく/″\他人の自由を羨みて、これからの行く末をも鎖りにつながれたるやうに考へぬ。
七つのとしより實家の貧を救はれて、生れしまゝなれば素跣足《すはだし》の尻きり半纏に田圃へ辨當の持はこびなど、松のひで[#「ひで」に傍点]を燈火にかへて草鞋《わらんぢ》うちながら馬士歌《まごうた》でもうたふべかりし身を、目鼻だちの何處やらが水子《みづこ》にて亡せたる總領によく似たりとて、今はなき人なる地主の内儀《つま》に可愛がられ、はじめはお大盡の旦那と尊びし人を、父上と呼ぶやうに成りしは其身の幸福《しやわせ》なれども、幸福ならぬ事おのづから其中にもあり、お作といふ娘の桂次よりは六つの年少《としした》にて十七ばかりになる無地の田舍|娘《もの》をば、何うでも妻にもたねば納まらず、國を
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