出るまでは左まで不運の縁とも思はざりしが、今日この頃は送りこしたる寫眞をさへ見るに物うく、これを妻に持ちて山梨の東郡に蟄伏《ちつぷく》する身かと思へば人のうらやむ造酒家《つくりざかや》の大身上は物のかずならず、よしや家督をうけつぎてからが親類縁者の干渉きびしければ、我が思ふ事に一錢の融通も叶ふまじく、いはゞ寶の藏の番人にて終るべき身の、氣に入らぬ妻までとは彌々の重荷なり、うき世に義理といふ柵《しがら》みのなくば、藏を持ぬしに返し長途の重荷を人にゆづりて、我れは此東京を十年も二十年も今すこしも離れがたき思ひ、そは何故と問ふ人のあらば切りぬけ立派に言ひわけの口上もあらんなれど、つくろひなき正の處こゝもとに唯一人すてゝかへる事のをしくをしく、別れては顏も見がたき後を思へば、今より胸の中もやくやとして自ら氣もふさぐべき種なり。
 桂次が今をる此許《こゝもと》は養家の縁に引かれて伯父伯母といふ間がら也、はじめて此家へ來たりしは十八の春、田舍縞の着物に肩縫あげをかしと笑はれ、八つ口をふさぎて大人の姿にこしらへられしより二十二の今日までに、下宿屋住居を半分と見つもりても出入り三年はたしかに世話をうけ、伯父の勝義が性質の氣むづかしい處から、無敵にわけのわからぬ強情の加減、唯々女房にばかり手やはらかなる可笑しさも呑込めば、伯母なる人が口先ばかりの利口にて誰れにつきても根からさつぱり親切氣のなき、我欲の目當てが明らかに見えねば笑ひかけた口もとまで結んで見せる現金の樣子まで、度々の經驗に大方は會得のつきて、此家にあらんとには金づかひ奇麗に損をかけず、表むきは何處までも田舍書生の厄介者が舞ひこみて御世話に相成るといふこしらへでなくては第一に伯母御前が御機嫌むづかし、上杉といふ苗字をば宜いことにして大名の分家と利かせる見得ぼうの上なし、下女には奧樣といはせ、着物は裾のながいを引いて、用をすれば肩がはるといふ、三十圓どりの會社員の妻が此|形粧《きやうさう》にて繰廻しゆく家の中おもへば此女が小利口の才覺ひとつにて、良人が箔《はく》の光つて見ゆるやら知らねども、失敬なは野澤桂次といふ見事立派の名前ある男を、かげに※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]りては家の書生がと安々こなされて、御玄關番同樣にいはれる事馬鹿らしさの頂上なれば、これのみにても寄りつかれぬ價値《ねうち》はたしかなるに、しかも此家の立はなれにくゝ、心わるきまゝ下宿屋あるきと思案をさだめても二週間と訪問《おとづれ》を絶ちがたきはあやし。
 十年ばかり前にうせたる先妻の腹にぬひと呼ばれて、今の奧樣には繼《まゝ》なる娘《こ》あり、桂次がはじめて見し時は十四か三か、唐人髷《たうじんまげ》に赤き切れかけて、姿はおさなびたれども母のちがふ子は何處やらをとなしく見ゆるものと氣の毒に思ひしは、我れも他人の手にて育ちし同情を持てばなり、何事も母親に氣をかね、父にまで遠慮がちなれば自づから詞かずも多からず、一目に見わたした處では柔和しい温順《すなほ》の娘といふばかり、格別利發ともはげしいとも人は思ふまじ、父母そろひて家の内に籠り居にても濟むべき娘が、人目に立つほど才女など呼ばるゝは大方お侠《きやん》の飛びあがりの、甘やかされの我まゝの、つゝしみなき高慢より立つ名なるべく、物にはゞかる心ありて萬ひかへ目にと氣をつくれば、十が七に見えて三分の損はあるものと桂次は故郷のお作が上まで思ひくらべて、いよ/\おぬひが身のいたましく、伯母が高慢がほはつく/″\と嫌やなれども、あの高慢にあの温順なる身にて事なく仕へんとする氣苦勞を思ひやれば、せめては傍近くに心ぞへをも爲し、慰めにも爲《な》りてやり度と、人知らば可笑かるべき自ぼれも手傳ひて、おぬひの事といへば我が事のように喜びもし怒りもして過ぎ來つるを、見すてゝ我れ今故郷にかへらば殘れる身の心ぼそさいかばかりなるべき、あはれなるは繼子の身分にして、腑甲斐ないものは養子の我れと、今更のやうに世の中のあぢきなきを思ひぬ。

       中

 まゝ母育ちとて誰れもいふ事なれど、あるが中にも女の子の大方すなほに生たつは稀なり、少し世間並除け物の緩い子は、底意地はつて馬鹿強情など人に嫌はるゝ事この上なし、小利口なるは狡るき性根をやしなうて面かぶりの大變ものに成もあり、しやんとせし氣性ありて人間の質の正直なるは、すね者の部類にまぎれて其身に取れば生涯の損おもふべし、上杉のおぬひと言ふ娘《こ》、桂次がのぼせるだけ容貌《きりやう》も十人なみ少しあがりて、よみ書き十露盤《そろばん》それは小學校にて學びし丈のことは出來て、我が名にちなめる針仕事は袴の仕立までわけなきよし、十歳《とを》ばかりの頃までは相應に惡戲もつよく、女にしてはと亡き母親に眉根を寄せさして、ほころびの小言も十分に聞きし物なり
前へ 次へ
全6ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
樋口 一葉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング