れば我れは首尾よく離縁になりて、一本立の野中の杉ともならば、其れよりは我が自由にて其時に幸福といふ詞を與へ給へと笑ふに、おぬひ惘《あき》れて貴君は其樣の事正氣で仰しやりますか、平常《つね》はやさしい方と存じましたに、お作樣に頓死しろとは蔭ながらの嘘にしろあんまりでござります、お可愛想なことをと少し涙ぐんでお作をかばふに、それは貴孃が當人を見ぬゆゑ可愛想とも思ふか知らねど、お作よりは我れの方を憐れんでくれて宜い筈、目に見えぬ繩につながれて引かれてゆくやうな我れをば、あなたは眞の處何とも思ふてくれねば、勝手にしろといふ風で我れの事とては少しも察してくれる樣子が見えぬ、今も今居なくなつたら淋しかろうとお言ひなされたはほんの口先の世辭で、あんな者は早く出てゆけと箒に鹽花が落ちならんも知らず、いゝ氣になつて御邪魔になつて、長居をして御世話さまに成つたは、申譯がありませぬ、いやで成らぬ田舍へは歸らねばならず、情のあろうと思ふ貴孃がそのやうに見すてゝ下されば、いよ/\世の中は面白くないの頂上、勝手にやつて見ませうと態とすねて、むつと顏をして見せるに、野澤さんは本當にどうか遊していらつしやる、何がお氣に障りましたのとお縫はうつくしい眉に皺を寄せて心の解しかねる躰に、それは勿論正氣の人の目からは氣ちがひと見える筈、自分ながら少し狂つて居ると思ふ位なれど、氣ちがひだとて種なしに間違ふ物でもなく、いろいろの事が疊まつて頭腦《あたま》の中がもつれて仕舞ふから起る事、我れは氣違ひか熱病か知らねども正氣のあなたなどが到底《とても》おもひも寄らぬ事を考へて、人しれず泣きつ笑ひつ、何處やらの人が子供の時うつした寫眞だといふあどけないのを貰つて、それを明けくれに出して見て、面と向つては言はれぬ事を並べて見たり、机の引出しへ叮嚀に仕舞つて見たり、うわ言をいつたり夢を見たり、こんな事で一生を送れば人は定めし大白痴《おほたはけ》と思ふなるべく、其やうな馬鹿になつてまで思ふ心が通じず、なき縁ならば切《せ》めては優しい詞でもかけて、成佛するやうにしてくれたら宜さそうの事を、しらぬ顏をして情ない事を言つて、お出がなくば淋しかろう位のお言葉は酷いではなきか、正氣のあなたは何と思ふか知らぬが、狂氣《きちがひ》の身にして見ると隨分氣づよいものと恨まれる、女といふものは最う少しやさしくても好い筈ではないかと立てつゞけの一ト息に、おぬひは返事もしかねて、私しは何と申してよいやら、不器用なればお返事のしやうも分らず、唯々こゝろぼそく成りますとて身をちゞめて引退くに、桂次拍子ぬけのしていよ/\頭の重たくなりぬ。
上杉の隣家《となり》は何宗かの御梵刹《おんてら》さまにて寺内廣々と桃櫻いろ/\植わたしたれば、此方の二階より見おろすに雲は棚曳く天上界に似て、腰ごろもの觀音さま濡れ佛にておはします御肩のあたり膝のあたり、はら/\と花散りこぼれて前に供へし樒《しきみ》の枝につもれるもをかしく、下ゆく子守りが鉢卷の上《う》へ、しばしやどかせ春のゆく衞と舞ひくるもみゆ、かすむ夕べの朧月よに人顏ほの/″\と暗く成りて、風少しそふ寺内の花をば去歳《こぞ》も一昨年も其まへの年も、桂次此處に大方は宿を定めて、ぶら/\あるきに立ならしたる處なれば、今歳この度とりわけて珍らしきさまにもあらぬを、今こん春はとても立かへり蹈《ふむ》べき地にあらずと思ふに、こゝの濡れ佛さまにも中々の名殘をしまれて、夕げ終りての宵々家を出ては御寺參り殊勝に、觀音さまには合掌を申して、我が戀人のゆく末を守り玉へと、お志しのほどいつまでも消えねば宜いが。
下
我れのみ一人のぼせて耳鳴りやすべき桂次が熱ははげしけれども、おぬひと言ふもの木にて作られたるやうの人なれば、まづは上杉の家にやかましき沙汰もおこらず、大藤村にお作が夢ものどかなるべし、四月の十五日歸國に極まりて土産物など折柄日清の戰爭畫、大勝利の袋もの、ぱちん羽織の紐、白粉かんざし櫻香の油、縁類廣ければとり/″\に香水、石鹸《しやぼん》の氣取りたるも買ふめり、おぬひは桂次が未來の妻にと贈りものゝ中へ薄藤色の襦袢の襟に白ぬきの牡丹花の形《かた》あるをやりけるに、これを眺めし時の桂次が顏、氣の毒らしかりしと後にて下女の竹が申しき。
桂次がもとへ送りこしたる寫眞はあれども、祕しがくしに取納めて人には見せぬか、夫れとも人しらぬ火鉢の灰になり終りしか、桂次ならぬもの知るによしなけれど、さる頃はがきにて處用を申こしたる文面は男の通りにて名書きも六藏の分なりしかど、手跡大分あがりて見よげに成りしと父親の自まんより、娘に書かせたる事論なしとこゝの内儀が人の惡き目にて睨みぬ、手跡によりて人の顏つきを思ひやるは、名を聞いて人の善惡を判斷するやうなもの、當代の能書に業平さまならぬも
前へ
次へ
全6ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
樋口 一葉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング