おはしますぞかし、されども心用ひ一つにて惡筆なりとも見よげのしたゝめ方はあるべきと、達者めかして筋もなき走り書きに人よみがたき文字ならば詮なし、お作の手はいかなりしか知らねど、此處の内儀が目の前にうかびたる形は、横巾ひろく長《たけ》つまりし顏に、目鼻だちはまづくもあるまじけれど、※[#「髟/兵」、第3水準1−94−27]《びん》うすくして首筋くつきりとせず、胴よりは足の長い女とおぼゆると言ふ、すて筆ながく引いて見ともなかりしか可笑し、桂次は東京に見てさへ醜《わ》るい方では無いに、大藤村の光る君歸郷といふ事にならば、機場《はたば》の女が白粉のぬりかた思はれると此處にての取沙汰、容貌《きりやう》のわるい妻を持つぐらゐ我慢もなる筈、水呑みの小作が子として一足飛のお大盡なればと、やがては實家をさへ洗はれて、人の口さがなし伯父伯母一つになつて嘲るやうな口調を、桂次が耳に入らぬこそよけれ、一人氣の毒と思ふはお縫なり。
 荷物は通運便にて先へたゝせたれば殘るは身一つに輕々しき桂次、今日も明日もと友達のもとを馳せめぐりて何やらん用事はあるものなり、僅かなる人目の暇を求めてお縫が袂をひかえ、我れは君に厭はれて別るゝなれども夢いさゝか恨む事をばなすまじ、君はおのづから君の本地ありて其島田をば丸曲《まるまげ》にゆひかへる折のきたるべく、うつくしき乳房を可愛き人に含まする時もあるべし、我れは唯だ君の身の幸福なれかし、すこやかなれかしと祈りて此長き世をば盡さんには隨分とも親孝行にてあられよ、母御前《はゝごぜ》の意地わるに逆らふやうの事は君として無きに相違なけれどもこれ第一に心がけ給へ、言ふことは多し、思ふことは多し、我れは世を終るまで君のもとへ文の便りをたゝざるべければ、君よりも十通に一度の返事を與へ給へ、睡《ねぶ》りがたき秋の夜は胸に抱いてまぼろしの面影をも見んと、このやうの數々を並べて男なきに涙のこぼれるに、ふり仰向《あふのい》てはんけちに顏を拭ふさま、心よわげなれど誰れもこんな物なるべし、今から歸るといふ故郷の事養家のこと、我身の事お作の事みなから忘れて世はお縫ひとりのやうに思はるゝも闇なり、此時こんな場合にはかなき女心の引入られて、一生消えぬかなしき影を胸にきざむ人もあり、岩木のやうなるお縫なれば何と思ひしかは知らねども、涙ほろ/\こぼれて一ト言もなし。
 春の夜の夢のうき橋、と絶えする横ぐもの空に東京を思ひ立ちて、道よりもあれば新宿までは腕車《くるま》がよしといふ、八王子までは汽車の中、をりればやがて馬車にゆられて、小佛の峠もほどなく越ゆれば、上野原、つる川、野田尻、犬目、鳥澤も過ぐれば猿はし近くに其の夜は宿るべし、巴峽《はかふ》のさけびは聞えぬまでも、笛吹川の響きに夢むすび憂く、これにも腸はたゝるべき聲あり、勝沼よりの端書一度とゞきて四日目にぞ七里《なゝさと》の消印ある封状二つ、一つはお縫へ向けてこれは長かりし、桂次はかくて大藤村の人に成りぬ。

 世にたのまれぬを男心といふ、それよ秋の空の夕日にはかに掻きくもりて、傘なき野道に横しぶきの難義さ、出あひし物はみな其樣に申せども是れみな時のはづみぞかし、波こえよとて末の松山ちぎれるもなく、男|傾城《けいせい》ならぬ身の空涙こぼして何に成るべきや、昨日あはれと見しは昨日のあはれ、今日の我が身に爲す業しげゝれば、忘るゝとなしに忘れて一生は夢の如し、露の世といへばほろり[#「ほろり」に傍点]とせしもの、はかないの上なしなり、思へば男は結髪《いひなづけ》の妻ある身、いやとても應とても浮世の義理をおもひ斷つほどのこと此人此身にして叶ふべしや、事なく高砂をうたひ納むれば即ち新らしき一對の夫婦《めおと》出來あがりて、やがては父とも言はるべき身なり、諸縁これより引かれて斷ちがたき絆《ほだし》次第にふゆれば、一人一箇の野澤桂次ならず、運よくは萬の身代十萬に延して山梨縣の多額納税と銘うたんも斗りがたけれど、契りし詞はあとの湊《みなと》に殘して、舟は流れに隨がひ人は世に引かれて、遠ざかりゆくこと千里、二千里、一萬里、此處三十里の隔てなれども心かよはずは八重がすみ外山の峰をかくすに似たり、花ちりて青葉の頃までにお縫が手もとに文三通、こと細か成けるよし、五月雨軒ばに晴れまなく人戀しき折ふし、彼方よりも數々思ひ出の詞うれしく見つる、夫れも過ぎては月に一二度の便り、はじめは三四度も有りけるを後には一度の月あるを恨みしが、秋蠶《あきご》のはきたてとかいへるに懸りしより、二月に一度、三月に一度、今の間に半年目、一年目、年始の状と暑中見舞の交際《つきあひ》になりて、文言うるさしとならば端書にても事は足るべし、あはれ可笑しと軒ばの櫻くる年も笑ふて、隣の寺の觀音樣御手を膝に柔和の御相これも笑めるが如く、若いさかりの熱といふ物にあはれ
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