狽《あわて》かたがをかしきとて、から/\と男の笑ふに少し恥かしく、考へ事をして歩いて居たれば不意のやうに惶《あわ》てゝ仕舞ました、よく今夜は來て下さりましたと言へば、あれほど約束をして待てくれぬは不心中とせめられるに、何なりと仰しやれ、言譯は後にしまするとて手を取りて引けば彌次馬がうるさいと氣をつける、何うなり勝手に言はせませう、此方《こちら》は此方と人中を分けて伴ひぬ。
 下座敷はいまだに客の騷ぎはげしく、お力の中座したるに不興して喧しかりし折から、店口にておやお皈《かへ》りかの聲を聞くより、客を置ざりに中座するといふ法があるか、皈つたらば此處へ來い、顏を見ねば承知せぬぞと威張たてるを聞流しに二階の座敷へ結城を連れあげて、今夜も頭痛がするので御酒の相手は出來ませぬ、大勢の中に居れば御酒の香に醉ふて夢中になるも知れませぬから、少し休んで其後は知らず、今は御免なさりませと斷りを言ふてやるに、夫れで宜いのか、怒りはしないか、やかましくなれば面倒であらうと結城が心づけるを、何のお店《たな》ものゝ白瓜《しろうり》が何んな事を仕出しませう、怒るなら怒れでござんすとて小女に言ひつけてお銚子の支度、來るをば待かねて結城さん今夜は私に少し面白くない事があつて氣が變つて居まするほどに其氣で附合て居て下され、御酒を思ひ切つて呑みまするから止めて下さるな、醉ふたらば介抱して下されといふに、君が醉つたを未だに見た事がない、氣が晴れるほど呑むは宜いが、又頭痛がはじまりはせぬか、何が其樣なに逆鱗《げきりん》にふれた事がある、僕らに言つては惡るい事かと問はれるに、いゑ貴君には聞て頂きたいのでござんす、醉ふと申ますから驚いてはいけませぬと嫣然《につこり》として、大湯呑を取よせて二三杯は息をもつかざりき。
 常には左のみに心も留まらざりし結城の風采《やうす》の今宵は何となく尋常《なみ》ならず思はれて、肩巾のありて脊のいかにも高き處より、落ついて物をいふ重やかなる口振り、目つきの凄くて人を射るやうなるも威嚴の備はれるかと嬉しく、濃き髮の毛を短かく刈あげて頸足のくつきりとせしなど今更のやうに眺られ、何をうつとりして居ると問はれて、貴君のお顏を見て居ますのさと言へば、此奴めがと睨みつけられて、おゝ怕いお方と笑つて居るに、串戲はのけ、今夜は樣子が唯でない聞たら怒るか知らぬが何か事件があつたかととふ、何しに降つて沸いた事もなければ、人との紛雜《いざ》などはよし有つたにしろ夫れは常の事、氣にもかゝらねば何しに物を思ひませう、私の時より氣まぐれを起すは人のするのでは無くて皆心がらの淺ましい譯がござんす、私は此樣な賤しい身の上、貴君は立派なお方樣、思ふ事は反對《うらはら》にお聞きになつても汲んで下さるか下さらぬか其處ほどは知らねど、よし笑ひ物になつても私は貴君に笑ふて頂き度、今夜は殘らず言ひまする、まあ何から申さう胸がもめて口が利かれぬとて又もや大湯呑に呑む事さかんなり。
 何より先に私が身の自墮落《じだらく》を承知して居て下され、もとより箱入りの生娘ならねば少しは察しても居て下さろうが、口奇麗な事はいひますとも此あたりの人に泥の中の蓮とやら、惡業《わるさ》に染まらぬ女子があらば、繁昌どころか見に來る人もあるまじ、貴君は別物、私が處へ來る人とて大底はそれと思しめせ、これでも折ふしは世間さま並の事を思ふて恥かしい事つらい事情ない事とも思はれるも寧《いつそ》九尺二間でも極まつた良人といふに添うて身を固めようと考へる事もござんすけれど、夫れが私は出來ませぬ、夫れかと言つて來るほどのお人に無愛想もなりがたく、可愛いの、いとしいの、見初ましたのと出鱈目のお世辭をも言はねばならず、數の中には眞にうけて此樣な厄種《やくざ》を女房にと言ふて下さる方もある、持たれたら嬉しいか、添うたら本望か、夫れが私は分りませぬ、そも/\の最初《はじめ》から私は貴君が好きで好きで、一日お目にかゝらねば戀しいほどなれど、奧樣にと言ふて下されたら何うでござんしよか、持たれるは嫌なり他處ながらは慕はしゝ、一ト口に言はれたら浮氣者でござんせう、あゝ此樣な浮氣者には誰れがしたと思召、三代傳はつての出來そこね、親父が一生もかなしい事でござんしたとてほろりとするに、其親父さむはと問ひかけられて、親父は職人、祖父は四角な字をば讀んだ人でござんす、つまりは私のやうな氣違ひで、世に益のない反古紙をこしらへしに、版をばお上から止められたとやら、ゆるされぬとかに斷食して死んださうに御座んす、十六の年から思ふ事があつて、生れも賤しい身であつたれど一念に修業して六十にあまるまで仕出來したる事なく、終は人の物笑ひに今では名を知る人もなしとて父が常住歎いたを子供の頃より聞知つて居りました、私の父といふは三つの歳に椽から落て片足あやしき風にな
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