子心には悲しくも思ふべし、去年あひたる時今は駒形の蝋燭やに奉公して居まする、私は何んな愁らき事ありとも必らず辛抱しとげて一人前の男になり、父さんをもお前をも今に樂をばお爲せ申ます、何うぞ夫れまで何なりと堅氣の事をして一人で世渡りをして居て下され、人の女房にだけはならずに居て下されと異見を言はれしが、悲しきは女子の身の寸燐《まつち》の箱はりして一人口過しがたく、さりとて人の臺處を這ふも柔弱の身體なれば勤めがたくて、同じ憂き中にも身の樂なれば、此樣な事して日を送る、夢さら浮いた心では無けれど言甲斐のないお袋と彼の子は定めし爪はじきするであらう、常は何とも思はぬ島田が今日|斗《ばかり》は恥かしいと夕ぐれの鏡の前に涕ぐむもあるべし、菊の井のお力とても惡魔の生れ替りにはあるまじ、さる子細あればこそ此處の流れに落こんで嘘のありたけ串戲に其日を送つて、情は吉野紙《よしのがみ》の薄物に、螢の光ぴつかりとする斗、人の涕は百年も我まんして、我ゆゑ死ぬる人のありとも御愁傷さまと脇を向くつらさ他處目《よそめ》も養ひつらめ、さりとも折ふしは悲しき事恐ろしき事胸にたゝまつて、泣くにも人目を恥れば二階座敷の床の間に身を投ふして忍び音の憂き涕、これをば友朋輩にも洩らさじと包むに根性のしつかりした、氣のつよい子といふ者はあれど、障れば絶ゆる蜘の糸のはかない處を知る人はなかりき、七月十六日の夜は何處の店にも客人入込みて都々《どゝ》一|端歌《はうた》の景氣よく菊の井の下座敷にはお店者《たなもの》五六人寄集まりて調子の外れし紀伊の國、自まんも恐ろしき胴間聲に霞の衣衣紋坂と氣取るもあり、力ちやんは何うした心意氣を聞かせないか、やつた/\と責められるに、お名はさゝねど此坐の中にと普通《ついツとほり》の嬉しがらせを言つて、やんや/\と喜ばれる中から、我戀は細谷川《ほそたにがは》の丸木橋わたるにや怕し渡らねばと謳ひかけしが、何をか思ひ出したやうにあゝ私は一寸失禮をします、御免なさいよとて三味線を置いて立つに、何處へゆく何處へゆく、逃げてはならないと坐中の騷ぐに照《てー》ちやん高さん少し頼むよ、直き歸るからとてずつと廊下へ急ぎ足に出しが、何をも見かへらず店口から下駄を履いて筋向ふの横町の闇へ姿をかくしぬ。
 お力は一散に家を出て、行かれる物なら此まゝに唐天竺《からてんぢく》の果までも行つて仕舞たい、あゝ嫌だ嫌だ嫌だ、何うしたなら人の聲も聞えない物の音もしない、靜かな、靜かな、自分の心も何もぼうつとして物思ひのない處へ行かれるであらう、つまらぬ、くだらぬ、面白くない、情ない悲しい心細い中に、何時まで私は止められて居るのかしら、これが一生か、一生がこれか、あゝ嫌だ嫌だと道端の立木へ夢中に寄かゝつて暫時そこに立どまれば、渡るにや怕し渡らねばと自分の謳ひし聲を其まゝ何處ともなく響いて來るに、仕方がない矢張り私も丸木橋をば渡らずばなるまい、父さんも踏かへして落てお仕舞なされ、祖父さんも同じ事であつたといふ、何うで幾代もの恨みを背負て出た私なれば爲る丈の事はしなければ死んでも死なれぬのであらう、情ないとても誰れも哀れと思ふてくれる人はあるまじく、悲しいと言へば商賣がらを嫌ふかと一ト口に言はれて仕舞《しまう》、ゑゝ何うなりとも勝手になれ、勝手になれ、私には以上考へたとて私の身の行き方は分らぬなれば、分らぬなりに菊の井のお力を通してゆかう、人情しらず義理しらずか其樣な事も思ふまい、思ふたとて何うなる物ぞ、此樣な身で此樣な業體《げふてい》で、此樣な宿世《すくせ》で、何うしたからとて人並みでは無いに相違なければ、人並の事を考へて苦勞する丈間違ひであろ、あゝ陰氣らしい何だとて此樣な處に立つて居るのか、何しに此樣な處へ出て來たのか、馬鹿らしい氣違じみた、我身ながら分らぬ、もう/\皈《かへ》りませうとて横町の闇をば出はなれて夜店の並ぶにぎやかなる小路を氣まぎらしにとぶら/\歩るけば、行かよふ人の顏小さく/\摺れ違ふ人の顏さへも遙とほくに見るやう思はれて、我が踏む土のみ一丈も上にあがり居る如く、がやがやといふ聲は聞ゆれど井の底に物を落したる如き響きに聞なされて、人の聲は、人の聲、我が考へは考へと別々に成りて、更に何事にも氣のまぎれる物なく、人立《ひとだち》おびたゞしき夫婦あらそひの軒先などを過ぐるとも、唯我れのみは廣野の原の冬枯れを行くやうに、心に止まる物もなく、氣にかゝる景色にも覺えぬは、我れながら酷《ひど》く逆上《のぼせ》て人心のないのにと覺束なく、氣が狂ひはせぬかと立どまる途端、お力何處へ行くとて肩を打つ人あり。

       六

 十六日は必らず待まする來て下されと言ひしをも何も忘れて、今まで思ひ出しもせざりし結城《ゆふき》の朝之助《とものすけ》に不圖出合て、あれと驚きし顏つきの例に似合ぬ狼
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