にごりえ
樋口一葉
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)信《しん》さん
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)卷紙二|尋《ひろ》も
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)やんちや[#「やんちや」に傍点]なれば
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)とん/\と
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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一
おい木村さん信《しん》さん寄つてお出よ、お寄りといつたら寄つても宜いではないか、又素通りで二葉《ふたば》やへ行く氣だらう、押かけて行つて引ずつて來るからさう思ひな、ほんとにお湯《ぶう》なら歸りに屹度《きつと》よつてお呉れよ、嘘つ吐きだから何を言ふか知れやしないと店先に立つて馴染らしき突かけ下駄の男をとらへて小言をいふやうな物の言ひぶり、腹も立たずか言譯しながら後刻《のち》に後刻にと行過るあとを、一寸舌打しながら見送つて後にも無いもんだ來る氣もない癖に、本當に女房もちに成つては仕方がないねと店に向つて閾《しきゐ》をまたぎながら一人言をいへば、高ちやん大分御述懷だね、何もそんなに案じるにも及ぶまい燒棒杭《やけぼつくひ》と何とやら、又よりの戻る事もあるよ、心配しないで呪《まじなひ》でもして待つが宜いさと慰めるやうな朋輩の口振、力ちやんと違つて私しには技倆《うで》が無いからね、一人でも逃しては殘念さ、私しのやうな運の惡るい者には呪も何も聞きはしない、今夜も又木戸番か何たら事だ面白くもないと肝癪まぎれに店前《みせさき》へ腰をかけて駒下駄のうしろでとん/\と土間を蹴るは二十の上を七つか十か引眉毛《ひきまゆげ》に作り生際、白粉べつたりとつけて唇は人喰ふ犬の如く、かくては紅も厭やらしき物なり、お力と呼ばれたるは中肉の背恰好すらりつとして洗ひ髮の大嶋田に新わらのさわやかさ、頸《ゑり》もと計の白粉も榮えなく見ゆる天然の色白をこれみよがしに乳《ち》のあたりまで胸くつろげて、烟草すぱ/\長烟管に立膝の無作法さも咎める人のなきこそよけれ、思ひ切つたる大形《おほがた》の裕衣に引かけ帶は黒繻子と何やらのまがひ物、緋の平ぐけが背の處に見えて言はずと知れし此あたりの姉さま風なり、お高といへるは洋銀の簪《かんざし》で天神がへしの髷の下を掻きながら思ひ出したやうに力ちやん先刻《さつき》の手紙お出しかといふ、はあと氣のない返事をして、どうで來るのでは無いけれど、あれもお愛想さと笑つて居るに、大底におしよ卷紙二|尋《ひろ》も書いて二枚切手の大封じがお愛想で出來る物かな、そして彼の人は赤坂|以來《から》の馴染ではないか、少しやそつとの紛雜《いざ》があろうとも縁切れになつて溜る物か、お前の出かた一つで何うでもなるに、ちつとは精を出して取止めるやうに心がけたら宜かろ、あんまり冥利がよくあるまいと言へば御親切に有がたう、御異見は承り置まして私はどうも彼んな奴は虫が好かないから、無き縁とあきらめて下さいと人事のやうにいへば、あきれたものだのと笑つてお前なぞは其我まゝが通るから豪勢さ、此身になつては仕方がないと團扇《うちは》を取つて足元をあふぎながら、昔しは花よの言ひなし可笑しく、表を通る男を見かけて寄つてお出でと夕ぐれの店先にぎはひぬ。
店は二間間口の二階作り、軒には御神燈さげて盛り鹽景氣よく、空壜か何か知らず、銘酒あまた棚の上にならべて帳場めきたる處も見ゆ、勝手元には七輪を煽《あふ》ぐ音折々に騷がしく、女主《あるじ》が手づから寄せ鍋茶碗むし位はなるも道理《ことわり》、表にかゝげし看板を見れば子細らしく御料理とぞしたゝめける、さりとて仕出し頼みに行たらば何とかいふらん、俄に今日品切れもをかしかるべく、女ならぬお客樣は手前店へお出かけを願ひまするとも言ふにかたからん、世は御方便や商賣がらを心得て口取り燒肴とあつらへに來る田舍ものもあらざりき、お力といふは此家の一枚看板、年は隨一若けれども客を呼ぶに妙ありて、さのみは愛想の嬉しがらせを言ふやうにもなく我まゝ至極の身の振舞、少し容貌《きりやう》の自慢かと思へば小面が憎くいと蔭口いふ朋輩もありけれど、交際《つきあつ》ては存の外《ほか》やさしい處があつて女ながらも離れともない心持がする、あゝ心とて仕方のないもの面ざしが何處となく冴へて見へるは彼の子の本性が現はれるのであらう、誰しも新開へ這入るほどの者で菊の井のお力を知らぬはあるまじ、菊の井のお力か、お力の菊の井か、さても近來まれの拾ひもの、あの娘《こ》のお蔭で新開の光りが添はつた、抱へ主は神棚へさゝげて置いても宜いとて軒並びの羨み種《ぐさ》になりぬ。
お高は往來《ゆきゝ》の人のなきを見て、力ちやんお前の事だから何があつたからとて氣にしても居まいけれど、私は身につ
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