録郎《うゑむらろくらう》、植村録郎、よむに得堪へずして無言にさし置きぬ。

       (四)

 今日は用なしの身なればとて兄は終日此處にありけり、氷を取寄せて雪子の頭を冷す看護《つきそひ》の女子《をんな》に替りて、どれ少し私がやつて見やうと無骨らしく手を出すに、恐れ入ます、お召物が濡れますと言ふを、いゝさ先《まづ》させて見てくれろとて氷袋の口を開いて水を搾り出す手振りの無器用さ、雪や少しはお解りか、兄樣が頭《つむり》を冷して下さるのですよとて、母の親心付れども何の事とも聞分ぬと覺しく、目は見開きながら空を眺めて、あれ奇麗な蝶が蝶がと言ひかけしが、殺してはいけませんよ、兄樣兄樣と聲を限りに呼べば、こら何うした、蝶も何も居ない、兄は此處だから、殺しはせぬから安心して、な、宜いか、見えるか、ゑ、見えるか、兄だよ、正雄だよ、氣を取直して正氣になつて、お父さんやお母さんを安心させて呉れ、こら少し聞分けて呉れ、よ、お前が此樣な病氣になつてから、お父樣もお母樣も一晩もゆるりとお眠《やすみ》に成つた事はない、お疲れなされてお痩せなされて介抱して居て下さるのを孝行のお前に何故わからない、平常《つね
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