は一見あり來たりの不動明王ではなく、何か印度教の神であるかの如き感を抱かせる。これに依つて觀れば、非常に印度教化された佛教が海路シャム・安南・カムボヂヤ等を經て廣東に入り、轉じて北九州に傳はつたのではないかと考へられる。之等の中心となつたのが例の彦山である。そして八幡神も根原はそこにあると見たい。津名郡釜口村(浦村)の旗山八萬宮に對する名所圖會の記述は云ふ。「當社八幡太神の御像は僧形なりとぞ。是は空海宇佐の宮へ參籠の時出現ありし御像にて、山城國高雄山神護寺に藏むる所と同じと寺記に見えたり。」即ち兩部神道の思想であらうが、かく僧形で顯現したりする處はどうしてもただの兩部神道でなく、もつと佛教的特に印度教化された佛教的の色彩が濃い。尚津名郡大谷村の大谷八幡宮に就いて、「例祭六月十五日。此日小麥を以て酒を造り神前に備へ、參詣の村民に酌て呑しむ。小麥造の酒味不佳なれども恒例の事にして今に怠ることなし。當社は宇佐より勸請すといふ。」と名所圖會が傳へてゐる。小麥で酒を造る事は日本民族の古風にない。之れまた八幡神が異種族の神であることを證するものではないか。そしてまた一方八幡と彦山との關係を考へることに依つて修驗道の神火の神の秋葉神が三條の蛭子社に百太夫と共に合祀されてゐることも諒解されるやうになるのではないかと思ふ。中古以來彦山は修驗道の本山であつたがその本源は全く不明と云ふ外はない。然も北九州一圓に於ける勢力は偉大で絶對の信仰を把握したのみならず、徳川幕府に對してさへ治外法權を認めさせてゐた。彼等は早くから大和朝廷に於ける中央文化圈の佛教とは趣きを異にした別種の佛教、即ち印度教化した佛教の法幢を樹て、教權を布いてゐたのであらう。人種人類學上の研究と學説がどんな風に進んでゐるか私はその現状を詳かにしないが、西村眞次氏の説に依れば水田耕作法その他を傳へたものとして印度支那民族の血が日本民族のなかに混入してゐることを跡づけ得ると云ふ。若し之れを信ずるならば北部九州に於ける特殊な印度系統の宗教この神々を信仰してゐた一部族の集團、及びこの集團が形造つてゐた異種の文化圈の存在をこの印度支那系統の民族に依つて説明することが出來るかも知れない。
 八幡信仰の部族は海上交通權を掌握してゐたが、一方に於てはまた金銀の採鑛冶金の術にも長じてゐた。之は大和朝廷の天孫民族にも知られてゐなかつたし、先住民族の土蜘蛛やアイヌ族にも知られてゐなかつた。銅及鐵の採鑛は知られてゐたらしいが黄金の採鑛精練には通じてゐなかつたらしい。それで彼等北部九州の部族は海上交通權を握ると共に一方日本島内に海陸相連絡して次第に遠く深く入りこんで行つて、金銀銅の諸鑛山を求めたのであらう。そして彼等の足跡の至る所八幡神の信仰を殘して行つた。これが八幡の社が日本全國にあまねく分布してゐる理由であらうと思ふ。夷三郎の方は海上の神として何處までも海邊にとどまつた。海上の神はやがて海産物の神となり、次いで海の産物と山野の産物との交換、山の物と田の物、工作物と農作物、これ等物々交換の市の神となり、更に轉じて商ひの神となつた。ここに夷三郎信仰の定着を見る。陸へ上つた八幡神はその定着の經路が明かでないが、一つは神功皇后三韓征伐に對する軍功と、採鑛冶金の術が武器の製作と密接に關係してゐる處から武家の守護神となり、一般民衆の爲めには惡魔折伏の神となつたのではなからうか。

         六、信仰の複合と技術の複合

 八幡神と夷三郎神とは常に不離の關係にあり、人形操はまたこの二神に必らず結合してゐるものとする。然しながら此の筑紫の宇佐八幡に隷屬する傀儡子と攝津西宮廣田神社の傀儡子とが全然同一のものであつたとは考へられない。何故なら西宮の傀儡子は産所であり、産所と云ふのは前述のやうに先住民族のうち大和民族に同化し切れずに取殘されて賤者階級に落された集團であるに反して、筑紫の宇佐八幡のそれは印度支那系統の別種の民族に屬するものと信じられるからである。
 そこで考へられるのは信仰の複合と云ふことである。産所の傀儡子の人形は、「人形の二系統」で述べたやうに、私はおしら神系統のとり物信仰から發達したものと考へてゐる。おしら神が最初カギ形の木の枝であつたのが次第に生長して人の形を取るやうになつたことは柳田氏の該博な研究に依つて明かとなつた。從つておしら神時代のそれはただ人形《ひとがた》であるにとどまつて、これを手に執り持つことに依つてその巫女は神格を得、神人交通の靈力を得たのである。葬送の業を掌つてゐた土師部族の産所が神靈界に交渉を持つて、斯う云ふおしら神なぞに依つて除禍招福の力を持つと云ふ風な信仰を集めるやうに一般民の間に立廻つたことは當然と考へられる。然も初めにはただ執り物であり神格の表象に過ぎなかつたおしら神が、遂には神そのものを示すものとなり、神の顯現と考へられるやうになつた時、彼等はこの神に人格を與へ、活動を與へる必要が起つた。おしら神の信仰が強くなり、民衆と密接な關係を有ち、人間生活を支配する力が大きくなればなる程人間的形態に近づかねばならなかつたのである。かくて人形は動き始めた。原始的な傀儡子が生れた。
 この時彼等がぶつかつたのは諸國に金銀の鑛山を求めて歩く八幡信仰の一集團であつたらう。彼等は産所の知らぬ新しい文化の所有者であつた。産所は直ちにこの新文化を吸收した。彼等の信仰を八幡神特に夷三郎の信仰と結びつけた。なぜなら夷三郎は海の幸の神、市の神、商ひの神であつたが爲めに彼等の經濟的生活に利益を與へることが多いのを洞察したからであらう。そしてそれまでは恐らく單純な木偶に過ぎなかつたものが、金掘業者の優秀な人形製作の技術を習得することに依つて、當時に於ては相當に立派な人形に變化したのである。かくて傀儡子は第一期の發達を終つた。これは産所の西宮定住時代であつたと思ふ。即ち八幡信仰部族が近畿中國一圓の策源地としてゐたらしい兵庫西宮附近に於て此の二つの大きな集團が交流混合したと考へることが出來るのである。ここに西宮廣田神社とその攝社の夷神社及び末社の百太夫社、産所の傀儡子とこの四つを結合することが可能となるであらう。
 此の複合の關係はそのまま淡路に移して見ることが出來る。試みに淡路の地誌を閲して見ると、殆どどこの村に就いて見ても八幡社と蛭子社のない處はない。操座元の三條八幡と同じ市村の蛭子神社は、之れを代表してゐる。殊に考ふべきはこの市村の名稱である。市村は阿波對岸の福良と、攝津及和泉、紀伊等に對向する洲本との中間にあたり、大日川流域の淡路唯一の平野の丁度中央に位置して居る。これを見て誰しも思ひつくことは茲に市を立てると云ふことである。淡路國名所圖會市村惠美須神社の條に、「相傳《あひつたふ》聖徳太子始めて市を立しめ給ふ時蛭兒尊は商賣を守るを以てこれを祭らしむと云。友直云、此地既に當國|市立《いちたて》の濫觴にて其基本最久し。(中略)いにしへは此地に於て毎月六齋日に國中の賈人會して市を立て物を商ふ。世に國府の市と稱す。市村の名も是より出づるなるべし。(中略)今は七月十三日十二月二十八日兩度の市のみ存せり。七月は盆供の品々を商ひ、極月は年始の飾物を商ふ。近里の人々輻輳して賑《にぎはへ》る也。此の市立《いちたて》には禳災《やくはらひ》と稱し、餅を賣るもの多し。厄年の者これを求めて身體を撫で爾後これを小※[#「くさかんむり/大/巳」、174−14]《つじ》に捨つるを風《ならひ》とす云々。」とある。これは夷神の除禍招福の思想が岐《くなど》神・道祖神の信仰と結びついたものと思はれるが、市場の舊趾に就いては同書に、「戎社の西傍にあり。」と出てゐる。之等の記事を見れば最早寸毫も疑ふ餘地はない。市村字三條の附近は淡路全國の市場で、恐らく上古物資集散の中心地となり、物々交換の爲の大きな市が立つた處であらうと思はれる。尚また名所圖會は廣田村中條の蛭子社に就いて、「里人云、當社は古は頗る大社にして莊嚴なりしかども、天正中回祿にかかりてより今の如く僅の小社となれり。此地名を市場といふ。按に古此所において市を立てしなるべしとぞ。」と云つてゐるから、市村に中心の大市があり、各村にはまたそれぞれ小市が設けられたことが之れに依つても察せられる。
 西宮の傀儡がどうして淡路の産所に定住したか、と云ふ疑問を私はここでもう一度取りあげよう。それは淡路の代表的な市がここにあつた。そして市には夷三郎神の信仰が附隨してゐた。とすれば明石海峽一つを隔てた西宮産所の傀儡子が、この地を目ざして移住して來るのは決して不思議ではないであらう。否彼等の部族の増殖膨脹に伴ふ必然の結果として、その勢力擴大の必要から彼等は自分の部族を各方面に移動せしめる爲に出來得る限り、斯樣な因縁をたどつて行つたのであらう。それが文化の移動ともなり、信仰の傳播ともなり、特殊な習俗の分布ともなるのである。
 市村字三條の人形操が事實に於てさう云ふ特殊な部族に屬してゐた事を證明する説話は幾つも殘つてゐる。例へば彼等は明治中期頃まで地方巡業に際して彼等特有の旅箪子にあらゆる生活の必要品を收めて持ち歩いた。長火鉢から鐵瓶・茶碗の類は勿論、或る太夫の如きは火鉢に用ゐる藁灰まで袋に入れて旅に出たと云はれてゐる。彼等の仲間では之れを盛榮を極めた頃の操座の豪奢を示すものとして誇を感じてゐるらしい。が然しそれこそ彼等が特殊部族として一般民衆から差別的な待遇を受けたことを示すものでなくてなんであらう。産婦をけがれとして別火せしめた同じ思想が、執拗に産所の民をして火鉢の灰まで旅に持廻らせたのである。
 尚一つ見逃がせないものは前述の如く上村源之丞座に鷹匠殿御用とした人足帳のあることである。喜田博士の「散所法師考」(「民族と歴史」第四卷第三號第四號)に依つても明かなやうに、平安朝頃から既に散所若しくは散所法師の名に依つて東寺・延暦寺等の大寺や近衞家その他の豪族に隷屬する下賤の奴僕があつて、掃除土工等の人足の用に應じてゐたことが記録されてゐる。源之丞座にある鷹匠家の人足帳と云ふのは彼等が矢張り同家に隷屬してゐることを示し、後代既に人足の用は足さず、人形操のやうな遊藝を專業とするやうになつても部族の傳統を墨守して人足帳を保持すると同時に、一方に於てはその遊藝興行の免許状や定紋提灯の使用なぞの特權に依つて種々の利益を得てゐたのである。

         七、結語(遊藝民蔑視の問題)

 私のこの蕪雜な論考に結論を與へる時は未だ當分來さうにない。私は唯久しい宿願であつた淡路人形座の地元を踏査した因縁に依つて、操に對して平素考へてゐたことを整理する力もなく、雜然と書き並べたに過ぎぬ。多くの問題は實はこれから後に殘されてゐるのである。そしてそれ等の解決に當るには今私は全く非力であることを告白する他はない。
 然し尚一つ私の念頭を離れぬ事柄がある。それはなぜ人形操の人々が古來下賤階級として卑しめられ、特殊部落扱ひをされたかと云ふ疑問である。それは人形を取扱つたからであらうか。淡路の古老の云ふやうに人形が殉死に代るけがれたものとする思想からすれば、或はそれを首肯し得るかも知れない。然し人形と全然關係のない萬歳・ササラ・鉢たたき・春駒等の人々も同じやうに下賤の者と見られてゐるのを考へれば必らずしも人形のみがその原因とは信じ難い。そんなら彼等は産所(若しくは算所、散所)と云ふ部族に屬してゐるが爲であらうか。如何にも産所は一面に於て諸大寺諸豪族に隷屬した奴僕であつたから卑しめられる理由にもなつたであらう。けれどもそれ等と成立ちを異にしてゐる俳優が矢張り河原者の名稱のもとに蔑視されてゐたのを知れば、あながちに産所であるが故にのみ下賤扱ひにされたとは受取れない。
 所詮我々はこの問題の爲にも少し根本的な方面まで溯らなければならないであらう。ヨオリックの名著「傀儡史」に就いて見ても、デュシャルトルの大著「伊太利喜劇史」或はランティラックの「中世期正劇史」に就いて見ても、將亦私の知る限りの「希臘悲劇史」に就いて見ても、
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