いて地元の古老は次のやうな興味の深い傳説を聞かせてくれた。淡路では最初人身御供として神の犧牲に人間を供へてゐたのを後代になつて、人の形を作つて人間に代へるやうになつた、これが人形の始まりである。處で人形操を演ずる場所を芝居と呼ぶのは、上古この人身御供代用の人形をけがれたものとして家の中へ入れることが許されなかつたので、戸外の芝の上に並べて賣つた、人形をひさぐ處即ち芝居であつて、これが轉じて人形操をなす場所をも芝居と云ふやうになつたのである。――元より無稽の臆説であるけれども、そこには充分考察すべき多くの暗示を含んで居る。
第一に考へ合せられるのは人間犧牲を人形に變へたと云ふことと、野見宿禰の殉死に代へる埴輪の話である。これは密接な關係があつて、恐らくこの場合の人間犧牲は殉死を意味するものであらう。さうとすればそれは葬送に關係した仕事であり、この點から彼等が人形をけがれたものとして取扱つた意味が諒解されて來る。葬送と墓造りと土器製作を掌つたのは土師部《はじべ》である。然らば淡路の人形造りは土師部であつたか。そしてまた土師部と人形操傀儡子とは關係があるのか。之れ等の點に就いては單に推定するより外はないが、津名郡に鳥飼村があり、名所圖會に「鳥飼莊。此傍邊をいふ。いにしへ鳥養部を置し所にやあらん。」といふのはその傍證になるかも知れないし、喜田貞吉博士がその「土師部考序論」(「民族と歴史」第五卷第三號)に於て、「是等の民は單に葬儀や墳墓の事などに從事するのみであつては、其の次第に増加する人口を糊するに足りなくなる。そこで彼等は身を浮浪漂泊の徒に伍し、祝言を述べ遊藝を演じて所謂ホカヒビトの仲間となる。」と書いたやうに、淡路に土師部がゐたと云ふことも、土師部が人形舞はしと結合したと云ふことも充分信じ得べき推定である。ただここにはつきり區別しておかなければならぬのは土師部の埴輪系統の人形と傀儡子の木偶系統の人形とは全然成立の根底が違つたものであると云ふ點で、之れは別稿「人形の二系統」に説いた通りであるが、淡路の傳説は人形と云ふ名の下に單純にこの二つを混淆したに過ぎない。
更に考へられるのは三條=産所と土師部との關係である。土師部が上代の特殊部落であつたやうに産所は中古の特殊部落であつた。産所の本體に就いては尚定説がなく、喜田博士はこれを散所と解して定住地なく諸所に散在する賤民であるとし、柳田國男氏はこれを「算所」と判斷して算木卜占術を業とする特殊民であるとした。然し私は矢張り之れを普通に考へて産所即ち出産に關する諸種の仕事、産婆産科婦人科醫的な世話をする特殊部落であると信じたい。出産をけがれとする思想は日本民族固有のもので、彼等が一般聚落の地から稍※[#二の字点、1−2−22]離れた處に産屋を建てて産婦を別火せしめた事は古事記以來の文獻に著しい古俗である。して見れば葬送のけがれにたづさはるのを業としてゐた土師部がやがて先述のやうな經濟的事情と社會生活の分業的發達とに依つて出産のけがれにもたづさはるやうになるのは自然の數ではなからうか。然も文化の進展と共に、算木卜占術を傳習して算所となり、更に社寺豪族に隷屬する下賤の奴僕となつて散所と呼ばれたのであらう。此の三つは一つのものの分化と見るべきで、決して別種の存在ではなかつたに違ひない。それのみでなく産所のうちにはまた祝言遊藝を業とするものが現はれ漂泊の傀儡子と混淆した。或はこの混合に依つて傀儡子は同じ特殊民の部落である産所に定住の地を求めるに至つたとも考へられる。西宮産所や、淡路市村の産所の傀儡子部落はかくして成立したのではあるまいか。然もこの淡路の傀儡子は祝言遊藝ばかりでなく、巫倡の業をも行つたらしいことが記録されてゐる。淡路國名所圖會卷之五に、「南光。同(鮎原)南谷村にあり、西村の境也。則土地の畝號によべり。此地は傀儡子の魃首《かしら》小林六太夫と私稱して其徒居住す。世俗此|畝號《あざな》を用て南光部《なんくわうぐみ》とよぶ。其婦妻のものは死靈の占《うらかた》を業とす。是をたたき神子《みこ》といふ。梓神子《あづさみこ》のたぐひなりとぞ。」とある。即ち小林六太夫の操座では男子は人形を舞はし、婦女は巫子《みこ》となつて占卜をしてゐた。之れは恐らく非常に古くから彼等の取つてゐた生業《なりはひ》だつたのであらう。巫倡の徒が上古以來特殊な部落を作つてゐたことは史上に明かである。若し自由な想像を許されるならば彼等は最初おしら神系統の信仰を持つた巫女が主體であつたのが、後そのおしら樣が人形として發達した時、傀儡子と巫子とに分れ、傀儡子には男子が當つて、各地方に出歩くと云ふ分業が生じたとも考へることが出來よう。これは誠に興味の深い問題であると思ふ。
然らば何が故に傀儡子は西宮と淡路の産所にその定住の地を求めたか。――此の疑問を解かうとした時私は當然夷三郎神にぶつかることになつた。抑※[#二の字点、1−2−22]夷三郎神とは何であらう。喜田博士の「夷三郎考」(「民族と歴史」福神研究號)に依ればこれは夷神と三郎神との複合されたものであり、古くは之れが別個の存在で、夷は大國主命に、三郎は事代主神に比すべきであるとされた。俗傳に依つても夷三郎が事代主神であることは三條の百太夫合祀の夷神社の例に依つても明かであるが、一方には之れを諾册二神の御子|蛭子《ひるこ》であるとする考も相當に廣く深いものがある。殊に蛭子と書いて「エビス」と讀ませてゐる程それは一般化してゐる。然しながら之等は凡て後人の思想を以て祭神を凡て古事記神代卷に現はれる神々にあてはめようとする結果出て來た説であつて、本來の夷、乃至夷三郎神なるものの信仰の對象なり、それに含まれてゐる宗教思想なりは、決して左樣なものではなかつたに違ひない。例へば當時の俗傳を最も忠實に蒐集したと見るべき「源平盛衰記」劍卷に、「蛭子は三年足立たぬ尊にておはしければ、天石※[#「木+豫」、第4水準2−15−77]樟船に乘せ奉り、大海が原に押し出して流され給ひしが、攝津の國に流れ寄りて、海を領する神となりて、夷三郎殿と顯れ給うて、西の宮におはします。」とあるが、茲で重要なのは實はこの夷三郎が海を領する神と云ふ點だけであつて、それが蛭子でも事代主命でも大差はない。何れも後人が説明の爲に設けた想定神に過ぎない。何故なら夷と云ふ言葉は明かに他民族を意味するものであつて、それが大和民族固有の神でないことは論を要しない。從つて之れを神代卷の神々に當てはめるのは正しい意義を忘れてしまつた後代の人々の假托であることも云ふまでもあるまい。即ち夷三郎は大和民族以外の異種族の神であり、彼が海を領する神であるが故にこの信仰を持つた民族は海に關係の深い種族であつたに違ひないと考へられるのである。
五、八幡神と夷三郎神
日本へ夷三郎神を持つて來た民族の本體を考へる前に今一つ闡明を要する問題がある。それは夷三郎と殆ど必然的に不離の關係を持つてゐる八幡神の信仰である。恐らく八幡神程日本全國にあまねく行き渡つて、どんな寒村僻地にもその鎭座の社を見ぬ處はない程に一般化されてゐながら、その本體の不可解な神は他にない。八幡宮の祭神を應神天皇とする如きは矢張り後代の習合であつて、兩部神道では八幡大菩薩と呼ばれ、必らずしも最初から左樣に信じられてゐたのではないことを示してゐる。八幡大神の最も代表的な九州の宇佐八幡も最初は地方的な神であるに過ぎなかつた(萩野由之博士)。それが聖武天皇の東大寺大佛御造營に當つて、この八幡の神助を乞はれ、東大寺鎭守として勸請されたので、これ以來始めて宇佐八幡と中央文化圈との關係が生じたのである。然るに柳田國男氏が炭燒長者傳説を闡明して炭燒小五郎の物語の起原が宇佐八幡の最も古い神話であるとされた處から(「海南小記」)土田杏村氏は、宇佐八幡を聖武天皇が勸請されたのは大佛造營に必要な金及び銅を得んが爲めであつたとしてそれを柳田氏の説に結びつけて、宇佐八幡は採鑛冶金の民の神であると考へた(「上代の歌謠」)。之れは誠に興味深い着眼點であると思ふ。
然しながら茲で更に今一つ考へなくてはならぬことは夷三郎神が海に關係があつたやうに八幡神も矢張り海に關係があると云ふ點である。その著しい例は宇佐八幡の細男《セイノウ》で、之れは筑紫の風俗歌舞らしい(小寺融吉氏)が、その起原に就いて、太平記卷三十九に記された俗傳に依ると、神功皇后が三韓征伐の參謀會議に當つてあらゆる天神地祇を招かれた時、大小の神々は常陸の鹿島に集つたが、ひとり海底に住む阿度部の磯良が召に應じない。これは永く水中の魚類に伍して貝殼や藻や蟲類が手足に取りついてゐる己れの醜さを耻ぢたからである。そこで神々は樂を奏して誘うた處、磯良は遂に感にたへて現はれ來り、やがて干滿の珠を龍宮へ借りに行つて皇軍の勝利をはかつたと云ふのである。そして豐前の志賀島の志賀明神は此の磯良を祀つて居り、この地元の傳説では右の神遊は鹿島でなくて、この志賀の濱邊であり、程遠くない合屋村の鼓打權現や笛吹權現は即ちその神遊びに鼓を打ち笛を吹いた神を祀つたのだと云つてゐる(小寺氏「近代舞踊史論」)。海神が干滿の珠を神功皇后に獻じたと云ふ傳説は廣く分布されて居り、京都の祇園祭に出る船鉾はこの物語を人形を以て表はしてゐる點で有名である。そしてこの細男と云ふ歌舞が宇佐八幡と密接な關係があることは我々に多くの暗示を與へるが、更に重要なのはこの歌舞が人間の所演のみではなく、人形を以て演ずることが主體となつてゐるらしい點で、傀儡子の發生を考へる際には實に見逃し難いものである。濱田青陵博士の「古表八幡の傀儡子」に依れば、豐前古表八幡社の末社四十體神社に三十六體の古朴な傀儡がある。(古くは四十體あつた。)これは宇佐八幡の放生會の時船に乘せて持つて行つて細男の舞を演じたものである。作は鎌倉初期と考へられてゐる。尚山城離宮八幡にも細男と稱して祭に用ゐる二個の大傀儡が收藏されてゐるとある。細男と八幡との關係が密接であることはこれで明かであり、それが海上で演ずると云ふことは傳説が教へる通り八幡神が海から來た、若しくは海と關係の深いことを示してゐる。想ふに筑紫を中心にした北部九州に一つの文化圈を形造つてゐた部族は、朝鮮海峽から渤海灣、東支那海一帶に渉つて海上に勢力を振つてゐたのではなからうか。この爲めに神功皇后は朝鮮半島へ渡海さるるに際して彼等の勢力を利用されたのであると考へられぬだらうか。
八幡神は此の部族の神である。夷三郎もまたその附屬神或は眷屬神の一つである。西宮廣田神社の祭神が天照大神即ち大日靈尊のに荒魂であると云ふ説(「日本記」)も明かに學人の後作説であつて、寧ろ神功皇后とも八幡同體とも云ふとした俗傳(「二十二社本縁」)の方が眞相に近い。地元の舊傳に依れば廣田神社は神功皇后三韓征伐の舊陣に兵庫の港へ船を寄せられた時、現はれて皇軍を迎へ奉つた神を祀つたものであるとして居る。更に「石清水宮寺縁事抄」(喜田貞吉博士「夷三郎考」引)には「攝津國武庫山ハ神功皇后異國ヲ討給時、三萬八千荒神ノ武兵ヲ置給山也。仍稱[#二]武庫山[#一]。其三萬八千荒神ハ御[#二]座西宮[#一]。」と云つてゐる。これ等のことは何を語るか。神功皇后が制海權を握つてゐたらしい北九州の部族の協力を求められたこと、八幡神はこの部族の神であり、この部族の功を賞してその祖《おほおや》を祀られた廣田神社が八幡同體であること、夷三郎はこの八幡の眷族であり、部屬の民を象徴してゐるらしいこと等である。
然らばこの八幡を神としてゐた部族は如何なる民であつたかと云ふことは本論の根本であるけれども之れは容易に決し難い。ただ茲に一つの手がかりとなると思はれるのは北九州臼杵地方の磨崖石佛群の存在である。京大の小川琢治博士はこれを逸早く研究調査されたが、その談に依ると、そのうちの不動明王像で普通の法繩の代りに蛇を持つてゐるのがある。然もその蛇は一般の蛇でなく印度産の毒蛇コブラを思はせる程頭の大きい蛇形を示してゐる。即ちこれ
前へ
次へ
全5ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
竹内 勝太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング