と兩手、一人が兩足)ことになつてゐる。それだけに、義太夫物とは違つた古いメトオドを持つてゐるのである。尤も「夷舞はし」の方は古來のものとは非常に變化してゐると云ふことが吉田傳次郎氏の談片にあつたが之れは信じられると思ふ。即ち「夷舞はし」は人形操に依つて生れた漁撈農耕の豐饒を祈る祝祭的行事であるが故に、民衆の要求に從つて民族心理の變化と共に演ずる内容形式に變化を受けるであらうと云ふ事は自然の經路であるからである。之れに比較すれば「三番叟」は比較的によく古來の形式を守つて來てゐるらしい。何故なら「三番叟」そのものが古く能樂以前から一つの形式が出來てしまつて居り、その出來上つた形式を人形に持ちこんだのであるから、一種の宗教的儀式の如く餘りに多く時代的變化を蒙ることなしに、忠實に傳統を遵奉されて來たものであらう。これは能の翁を見ても證據立てられるし、吉田氏自身も承認してゐた。この點から見れば「三番叟」が現存の操の最も古曲と考へられるのみでなく、その「三番叟」と「夷舞はし」の二曲を淡路の人形座が常に上演曲目《レペルトワル》に加へてゐることに依つて、始めてそれは文樂と異つた特殊な存在であることを主張することが出來るのである。即ち文樂座は明かに純藝術的な演技であるが上村源之丞座は未だ全部が純藝術的になり切らない、宗教的意義の名殘をとどめてゐる過渡的な演技を含むと云ふべきである。そこに淡路人形操の正しい位置がある。

         三、操座の由來

 淡路の人形で最も歴史の古いのは勿論三原郡市村字三條の上村源之丞座である。津名郡志筑町の淡路源之丞座は比較的新しく、同郡鮎原村の小林六太夫座よりも後のものであると云ふ。吉田氏の説に依れば約百年位前の創設であらうと云ふ事であつたが、それは勿論確實な根據のあるものではない、種々の事情を綜合して考へれば少くとも二百年位には溯り得ると思はれる。然もこの最も新しいとされる座が代表的な淡路源之丞の名を持つてゐるのは不思議であるが、調べて見ると最初は上村源左衞門と稱して上村源之丞の一派であつたのを後、諸國巡業に際して人形の元祖として古く賣りこまれた源之丞の名が芝居道の團十郎菊五郎の名の如く勢力を持つを見て、之れを襲用することの便利さを感じて淡路源之丞と改名したと云ふのが眞相らしい。從つて地元では淡路と云ふやうな土地全體を代表するやうな名を認めず、却つてその座元所在の地名を被せて志筑源之丞と呼ぶのが通例になつて居るやうである。
 上村源之丞座の由來に就いては既述の通り吉井太郎氏が發表されたやうなことが座元の人々に依つて傳へられてゐる以外に明確な資料は得られない。吉田氏や土地の古老の言葉を要約すれば、昔人形舞はしの百太夫と云ふものが三條へやつて來て、菊太夫と云ふものの娘と結婚したが、その間に出來た子に自分の業をつがせた。之れが淡路人形操の根元であると云ふことになつてゐる。そしてこの百太夫が道薫坊であるとも云ひ、百太夫が道薫坊と云ふ人形を持つて來たとも云ふ。それで見ると一應淡路の人形操は他地方から傳へられたものであり、百太夫がその祖であると解されるが、抑※[#二の字点、1−2−22]その百太夫と云ふものの本體が頗る捕捉し難いものであるから、結局これが疑問の焦點となつて來るのである。
 處でこの百太夫が西宮の夷神社と關係の深いことは前記吉井氏の研究に依つて明かにされ、同社の末社に百太夫社があることも又それが西宮傀儡師の祭神であることも裏書された。そしてこの西宮傀儡師が定住した部落は今尚西宮市の西宮神社の北に地名として殘つてゐる産所である。然るに淡路操座のある市村字三條は古く産所と書き、現在も尚地元の人々に依つて短く「さんじよ」と發音されてゐる。のみならず私の地元踏査に依つて百太夫社は夷社と合祀されて、三條八幡の攝社となつて居り、西宮の夷神社が廣田神社の攝社であり、百太夫社がその末社であるのと同巧異曲であることがわかつた。これで見ると西宮産所と市村字三條との關係が略※[#二の字点、1−2−22]想像されるのであるが、更にこの市村に隣接する廣田村の歴史が一層西宮と淡路との關係を密接にする。
 廣田村は古くは廣田郷と呼ばれた。淡路國名所圖會所載の「東鑑」の記事に依れば、「壽永三年四月二十八日、平氏在西國、之由風聞[#(ス)]仍[#(テ)]被遣軍兵、爲[#二]征罰無事御祈祷[#一]、以[#(テ)]淡路國廣田庄[#(ヲ)]被[#(ル)]寄附廣田社[#(ニ)]。寄進。廣田社神領。在淡路國廣田領一所。右爲[#(ニ)]増神威、殊[#(ニ)]存祈祷[#(ヲ)]、寄進如件。壽永三年四月二十八日。正四位下源朝臣。」云々とある。之れは西宮廣田神社の神領として淡路の廣田郷、今の三原郡廣田村を源頼朝が寄進したのである。廣田村には前記の通り廣田八幡があり、廣田村字|中條《なかすぢ》には同社の御旅所と向ひ合つて蛭子社がある。西宮と淡路との因縁は斯樣に古く、又深いのである。
 然らば西宮産所の百太夫に擬せられる傀儡子が淡路の産所を目ざして出て來たのも偶然ではなく、來るべき充分の理由があつたのであらう。即ち同一部落の交通がそこに暗示されてゐる。加之彼が入家した家の名が菊太夫と云ふことを考へれば之れも何か傀儡子に縁のありさうな名である。或は百太夫以前にこの産所に極めて原始的な傀儡子があつたのではないか。名所圖會に、「里老の傳説に往昔《むかし》西宮に百太夫と言《いふ》もの木偶《にんぎやう》を携へ淡路に來り、此村の麻績堂《をうみだう》に長く寄宿せり。時に此村の木偶師《にんぎやうし》菊太夫なるもの百太夫を伴ひ歸り留ける内、菊太夫が娘に契りて懷胎す。」とある。之れは私の考を裏書するやうである。麻績堂《をうみだう》に就いては同じ名所圖會が次のやうに記して居る。「一説に總社の祭禮に産穢の者はいづれも避けて當村の麻績堂に産育せし故こゝを産所といふ。(中略)又飯山寺社記には伊弉諾伊弉册の二神日神月神蛭兒素盞嗚等を生給ふ地なるゆへに産生《さんしやう》といふと作れり。今は大御堂といへり。秉穗録云、麻績堂は國中の婦人會聚して麻を績《うみ》たる所なり云々。」淡路と麻との關係に就いては津名郡|來馬《くるま》村に伊勢久留麻神社があり、名所圖會に、「一書[#(ニ)]伊勢の久留眞《くるまの》神社は(中略)麻を植そめし神にて阿州|麻殖郡《をゑのこうり》にも同神あり。」と述べてゐる。然も同社は延喜式に「淡路國津名郡伊勢來留麻神社」と出てゐるから由來する處遠く、從つて淡路には古くから製麻が盛んだつたのであらう。吉田氏の言に依れば今の三條八幡が即ち元の大御堂と稱へられた處で、正しくは緒紡《をみ》堂と書くべきであり、これは昔村の人々が集つて緒を紡ぐ集會所であつたのだと云ふ。麻の緒を紡ぐことと人形との關係も一應考へて見る必要があるが、産所の部落民達はこれで見ると他村とは違つた共同的な生産事業を營んでゐたものらしい。そしてそれは一般人とは變つた、即ち上古の雜戸の部に屬する特殊な仕事であつたのだらうとも考へられる。例へば京阪地方で産兒の宮詣り(男兒は出産後三十一日目女兒は三十日目に産土神《うぶすな》に健康と幸福をさづかりに來る)に必らず麻緒を産衣に結びつける、それも近親ではなくて、近隣の人々に結んで貰ふ土俗があるのは、この産所の緒紡ぎと何等かの關係があつたことを暗示するものではなからうか。さうとすれば彼等はこの他村のやらぬ緒紡ぎを生業として、その傍、人形も舞はした。そこへ百太夫が現はれて最も進んだ西宮の操の方法《メトオド》と技術《テクニック》とを傳へて、彼等の人形舞はしに革命を與へた。そして淡路人形操の元祖となつた。とこんな風に解釋することが出來さうである。何れにしても淡路の人形が西宮に本源《オリヂン》を持つものであることは殆ど疑ひを容れない。
 百太夫定着の年代は元より明かでないが大體に於て鎌倉末期よりは下るまいと思ふ。そしてこの頃以後の人形がどの程度のものであり、どう云ふ經路に依つて發達したかと云ふことも到底適確には知る由もないが、操の各座元にはそれぞれ綸旨の寫しと、櫓の免許状と云ふものを持つてゐる。それ等の文書に記されてある年號もまた元よりそのまま肯定することは出來ないにしても元龜年間京師に上り、禁裡に於ける三社の神樂の際に召されて操を演じたと云ふことは大體信じていいことであらう。此時帝の御感に入つて從四位を賜つて居る。それから別に鷹司家御用の人足帳と云ふものが上村源之丞の座元にある。即ち鷹司家の人足として隷屬してゐると同時にその元締に當る座元には名字帶刀を免ぜられ鷹司家の定紋提灯を用ゐることを許されたのである。地方巡業の際この定紋提灯があると、源之丞座の興行地點を中心にその一里四方以内に於ては凡ての興行物は停止され、川越えの際には何人よりも先きに渡ることなどの特權が與へられて、中央政府なり貴族階級なりから特別の保護と獎勵とを加へられてゐたのであるから、彼等人形操の位置と技術とは當時の文化の中心から相當に認められてゐたと考へられると同時に、それだけ彼等の技術が進んだものであつたと云ふことも信じられる。
 然しながら、彼等の演出した曲目は「夷舞はし」と「三番叟」とが主體で、その後諸國巡業中京師やその他の文化の中心に觸れるに從つて次第に彼等の技術は展開し、新しい演出の方法《メトオド》と演出曲目《レパルトワル》とを發見し、添加して行つたであらう。例へば平曲から出た説教節や幸若舞曲風の要素が取入れられて、單純な物語の多少劇化したものをテキストに作りあげて、之れに依つて徐々に複雜な演出を試みたのであらうと思はれる。がこれを現在の操から見れば凡て比較にならぬ程原始的なものであつたに違ひない。近松と義太夫とが現はれて人形操にも一期を劃した。それは明かに急角度の轉回であつて、その後數年若しくは十數年にして人形操の方法《メトオド》は略※[#二の字点、1−2−22]完成したと云つていいのである。それ以後は技術上の細部の發達に過ぎない。
 處がこの義太夫節淨瑠璃が如何にして淡路へ這入つて來たかと云ふと、これは大阪から直接にではなく、反對に阿波徳島方面から來たものらしい。何故なら第一に淡路では義太夫節のことを阿波淨瑠璃と云つてゐる。第二に淡路に於てこの淨瑠璃の最も盛んな土地は福良であり、近松の「國性爺」の如き古曲の大物は、洲本その他では既に語り得る人がなくなつてゐるのに、福良にはそれが尚立派に殘つてゐる、などのことを考へ合はすれば、私はさう云ふ結論に達せざるを得ないのである。福良は僅に鳴門海峽を隔てて阿波と隣接してゐる。阿波と義太夫との關係の密接であつたことは云ふまでもないが、これは阿波徳島の如き大藩の持つ文化圈の強大な力は、淡路の小藩を飛び越えて直接に京阪の文化中心と接觸を保ち、その影響を受けることが遙に迅速で且つ深かつたに違ひない。そこで義太夫節は先づ徳島に入り、更に之れが阿波淨瑠璃となつて福良に渡り、漸次洲本・由良・岩屋と淡路全島にひろがつたのではなからうか。そしてこの阿波淨瑠璃は福良・洲本の中間にある市村字三條に於て人形操と結合することに依つて當然其本源の竹本座の人形操をも移入する事になり、茲に淡路の人形淨瑠璃が誕生した譯であらうと考へられる。尚淡路と大阪文樂座との關係は、地元では淡路から文樂座が生れたと信じてゐる。即ち文樂座は文樂翁の創設にかかるものであり、文樂翁と云ふのは淡路假屋の人であると云ふ。私は尚この點を明かにする暇がないが、假令これが全部事實であるとしてもそれは阿波淨瑠璃渡來後、遙に後のことであるに違ひない。即ち淡路の人形操は大阪に於ける竹本座豐竹座の操發達後は多く之れの影響を受けつつ今日の状態にまで發達したものと信ぜられるのである。
 かやうに見て來ると淡路の人形操座は先づ西宮の夷舞はしに依つて第一期の原始的生長を行ひ、次いで大阪の義太夫淨瑠璃に依つて第二期の大成的發達を遂げて、茲に完成を告げたものと推斷することが出來る。

         四、人形源流考

 人形の起源に就
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