淡路人形座訪問
(其の現状と由來)
竹内勝太郎
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(例)欄干《てすり》を
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一、地元踏査
一月十日雪の後の睛れやかな明石海峽を渡つて洲本へ上つた。同行三人、榊原紫峰君と青年畫家の片山君。とつつきに遊女町があるのも古い港の情趣であらう。既に夕闇が迫つゐるので外出を斷念した。地圖をひろげて明日の踏査のプランを考へ、曉鐘成編「淡路國名所圖會」その他を調べて二三準備をするにとどめた。
同夜は宿を頼んだ同好の士島醫學士の厚意に依つて、特に三條村から操座を招いて、同家二階座敷に欄干《てすり》を急造して演出して貰つた。これは淡路でも最も古い上村源之丞の座元を預つてゐる吉田傳次郎氏の一座であつて、恰も正月の休みに各巡業地先から操の人々が歸つて來てゐるので、今夜の操《てすり》役は皆一流の上手ばかりを撰りすぐつて來たと云ふことであつた。三味線は土地の盲人師匠、太夫は素人の巧者と云ふ組合せで、それがまた一層民俗藝術の匂ひと色を強くした。演出曲目は成る可く古曲をと布望したが、舞臺が完全でない上に、小道具や衣裳や人形の頭など特殊なものを要求する關係から目ざした「國性爺」は見られず、先づ吉例「夷舞はし」と「三番叟」から始めて、華やかな「太閤記」尼ヶ崎の段、すすけた「恨鮫鞘」鰻谷の段、古風な「河原達引」堀川の段稽古場の五番が演ぜられた。
然しその演技は豫想した程古拙でもなくまた土の匂ひも淡かつた。演出後吉田氏や來合せた土地の古老から操の由來に就いていろいろ質問して見たが、吉井太郎氏その他に依つて既に發表されてゐること以外には餘り多くの新説は聞き得なかつた。此の夜の私の手帳に筆録された分量は貧弱であつた。紫峰君自身は古い頭を求めるつもりで豫め蒐集を依頼してあつたらしいが、前回の時程優秀な古品は尠く、之れも大した收穫はなかつた模樣である。私達は稍※[#二の字点、1−2−22]悲觀せざるを得なかつた。
翌日は朝早く鼓の音に目をさまされた。訊いて見ると松の内のことで操の「三番叟祝ひ」が人形を持つて町家を廻つてゐるのだと云ふ。流石は地元だと昨夜の失望を取返して、島夫人に頼んでその一組を呼びこんだ。人形を舞はすものが三番叟を謠ひ、笛を吹き、鼓を打つものは扇型の薄い木片で拍子を取りつつ鼓を打ち、時に千歳黒尉の掛合に相方を務める。この人形は極小く、約一尺五寸位であるが、演技は昨夜の操と大差はない。幾分の短縮と粗雜さとがあることは云ふまでもない。然もこの謝儀は願主の心持次第であるが、先づ五錢が通り相場だと云ふに至つては寧ろ低額に過ぎ、彼等の經濟組織が依然封建時代的であるのに驚いた。
朝食後自動車を傭うて片山君の案内で三原郡市村字三條に向つた。朝からの曇り空は遂に淡路に珍らしい雪を降らした。途中廣田村字廣田の廣田八幡を訪ねて、一路目的地三條の三條八幡に着いた。社頭の松の下に雪を避け、藁を焚いて暖を取りながら、吉田氏の内方に斡旋を乞うて百太夫社の開扉を待つたが、生憎責任者の組長が不在で遂に不可能となり、宿望の百太夫像は見られずに終つた。止むなく社殿をめぐつて資料を漁ることとした。八幡宮の社殿は拜殿と接續してゐる。その左方に別棟で小社が新築されてある。之れが百太夫であると云ふが、神前に掲げられた扁額を見ると中央に「事代主神社」とあり、その右に「道薫坊」「百太夫」と並べ、左に「秋葉神」と書いてある。之れで見ると道薫坊と百太夫は昔から殆ど異名同體の如き取扱ひを受けてゐたことを示してゐるのではないかと思はれる。事代主が夷三郎を意味してゐることは明かで、夷三郎と百太夫との關係は周知の事實としても、茲に秋葉神が合祀されてゐるのは何の理由に依るのか甚だ了解に苦しんだ。
然るに拜殿の前の石燈籠には中央上部に「蛭子大神宮」とあり、その下に向つて右に「願主源之丞」「座中」「天明五乙巳十一月吉日」と並び、左に「村中」と刻んであるのを發見した。さうして見れば古くはこの社殿には八幡宮と夷三郎と一緒に合祀されてあつたのが、後に八幡宮と夷三郎とが別れて、夷三郎と百太夫との社殿が新に造營されたのではないかと想像された。のみならず源之丞座中が村中と對立してゐるのは當時の三條村が源之丞座に依つて代表されてゐたとも見られ、或は源之丞即三條村であつたことを暗示するものと考へられる。尚拜殿の天井には「源之丞座中」と書いた、古く操に持廻つた確に人形の箱らしく思はれる形の木函が奉納されて吊り下げてあつたし、また片隅の棚には嘉永六年の年號のある古風な行燈が乘せてあつた。昔はこの社殿の前で操を演じたと云ふことであるから、この行燈などもそんな場合に用ゐられたものではなからうか。それから社殿の西側に相當大きな平家建があるので、何か祭神の器具でも納めてあるのかと想像して案内の吉田家の人に訊ねて見たが、これは村の人達の集會所に充てられるもので、何も這入つてはゐないと云ふことであつた。して見ると三條では今でも明かに此の八幡宮を中心にして聚落生活が行はれてゐることがわかるのである。
市村には別に立派な市の蛭子神社があるが雪が益※[#二の字点、1−2−22]降りしきるので斷念して、間近い元祖上村源之丞の家を訪ねて見た。然し之れも當代の源之丞は一家をあげて二十年程前に徳島に移轉してゐるので何物も見せて貰ふ譯にはゆかない。ただ古い門構へや、その傍に長い納屋風の人形倉が並んでゐる樣子が如何にも古い座元の家らしく感じられて興味が深かつた。歸途は四國街道の養宜《やぎ》の松原を眞直ぐに取つて、途中廣田村|中條《なかすぢ》の蛭子神社に立寄り、夕刻洲本の宿へ歸り着いた。
同夜は、土地の藝術《アマチュール》愛好者の集りさつき會の招待を受け、その席で人形や美術の話に夜をふかしたが、流石に人形の本場だけに今尚一般に義太夫淨瑠璃の盛んなことは想像以上であり、大抵の人がこの藝を嗜まぬものはない有樣であるのに、今更ながら民俗藝術の力の大きさを痛感させられたのであつた。
翌十二日は前夜の大風雪の爲め兵庫洲本間の最終定期船が休航したので豫定の時間に船が出ない。歸りの都合もある處からやむを得ず再度自動車を傭うて海岸線を岩屋へぬけた。途中鹽田村で土地の祭と見えて、赤烏帽子の子供が二人櫓太鼓の上に乘つて之れを打ち、同じやうな子供二三十人が之れを擔いでワッショワッショと押し出してゆくのに出會つた。これは全部子供の祭で、大人連は見物しながら聲援してやつてゐる。如何にものどかな漁村の氣持が出てゐて愉快であつた。岩屋からポンポン蒸汽で明石へ渡り、神戸大阪を經てこの行を終つた。
二、人形操の現状
昔盛況を極めた頃の人形座の組織は四十人乃至五十人を以て一座とされてゐたが、現在では普通人形十五六人、太夫三味線弟子等合して十七人位が一座を組んでゆく。基本的な人形座の組織は最少限度八人とされてゐる。「淡路國名所圖會」には「凡其座元といふ者二十軒餘もあるよし。」とあるが目下淡路に現存する人形座は三條の上村源之丞、志筑町の淡路源之丞、鮎原村の小林六太夫、市の市村六之丞の四つ、約六十人位の遣ひ手がある。この外伊豫と阿波とに小さな座が出來て居ると云ふ。明治以前には三條だけでも住民七八十戸が全部人形操を業としてゐたが、操の衰微と共に次第に農業その他に轉じてしまつた。一番古い家柄の上村源之丞が既に徳島へ移つて寄席興行主になつてゐるのを見てもそれは想像に難くない。人形細工人の方は元來主として徳島が本場で、時たま淡路にも出來るが之れは專業ではなく、農業の片手間仕事であるから自然その技術も優れたものはなかつた。
現在淡路人形操の巡業先はそれぞれ固定した地盤とも見るべきものがあつて、各自その地域を守つてゐる。例へば全體的に見れば、彼等の巡業地は九州・四國・中國・近畿等可なり廣汎に渡つてゐるが、そのうち四國でも土佐だけは操に頗る縁が薄く、彼等は餘り這入つてゆかない。そして九州一圓は市村六之丞、紀州を主として大和・河内・和泉は小林六太夫、中國地方は淡路源之丞、伊豫を中心にして阿波・讃岐・攝津等は上村源之丞の地盤と云ふ風になつてゐる。尚中國地方などでは座に屬さずに路傍で一人遣ひの單純な操を演じて廻る門附《かどづけ》の人形操の獨立した一團が相當に存在してゐる。
右のうちで最も操趣味の盛んなのは伊豫である。元日から暮の大晦日まで毎年々々繰返して一年中巡業することが出來るのは伊豫だけであると云はれてゐる。伊豫では古くから一年の各月をそれぞれ群町村に割當てて巡業日を豫定してある。殊に冬期の見物の爲には芝居炬燵と云ふ特種な保温具まで出來てゐる位である。之れに續いて盛んだつたのは紀伊で、小林六太夫と紀州との關係は相當に深いものがあつたらしく、紀州侯から座元に三葉葵の定紋を許されてゐたと云ふ。即ち此の人形座は紀伊領一圓には有利な特權を得てゐたのである。
然しながら近來各座共床の方が手薄になつて、座附太夫の他に追抱太夫と云ふ制度を設けて、臨時に太夫を傭ふことになつてゐる。和歌山の淨曲家千田梅家軒氏の談に依ると、九州巡業の市村六之丞の方では一年契約で一日最低九圓から最高十三圓と云ふ取りきめである。尚その他の待遇をあげると、座附太夫と別看板をあげること、汽車汽船は二等、乘物のある土地では凡てこれを支給し、宿は別館で附人一人の實費を全部負擔する他に髯剃一週二度、散髮二週一度實費を辨償する。興行日數は通例一回二十四五日と云ふから追抱太夫の收入は相當額に達する譯である。そしてその勤務は主として世話物語りが持場で、之れは太夫の選擇に依つて毎日出し物をきめるが、別に忠臣藏の九段目と太閤記の十段とは必らず座元の指定通り語らねばならぬ義務を負はされる。但し座の弟子達に對する稽古は自由で、必らずしもせねばならぬ義務はなく、太夫の心持次第と云ふことになつてゐると云ふ。
人形座の現在に於ける社會的地位に就いては既に古來の特殊的な待遇を以て扱はれることはなくなつてゐるやうである。が矢張り結婚その他の關係になると一般の人から好まれない模樣が見える。彼等が特殊な部落であると云ふ氣持は一種拔き難い觀念となつて他地方の人々の間に殘つて居り、ともすればそれが外に表はれて、一般民衆から好感を持たれない形となつてゐることは蔽ひ難い事實である。
然し私の見た限りの上村源之丞の操は殆ど文樂座のそれと大差はなかつた。主役の人形を三人で使ふのも、人形の眼・眉・口・指等が動くのも、又人形の大さも殆ど同じである。それとこれとは恐らく創設以來密接な相關關係があつて、相互に影響し合つたであらうと云ふことは想像に難くない。義太夫物で一番古いとされてゐるのは矢張り近松作の「國性爺」と「心中天網島」であるが、それとても敢へて文樂以前の古體、特別に舊い形式手法が殘つてゐるのではない。勿論細部に渉つて稠密な比較研究を行つたならば、地方的な色彩なり古風な樣式なりが保存されてゐるだらうと云ふことは否定されない。だが之れは一つの大きなメトオドのなかの小さな變化であるにとどまつて、メトオドそのものの相違と見なすことは出來ない。從つてそこには淡路の人形操を特質づけるものが存在しない。この意味から云へば上村源之丞の操は方法論的にも形態論的にも文樂の操と全然同じ範疇に屬するものと斷定して差支へないのである。
然しながらそれは義太夫物に限つての話である。淡路ではこの外に必らず序曲的上演題目として「夷舞はし」「三番叟」の二曲を持つてゐることを忘れてはならない。此の人形に限つて二人が遣ふ(一人が頭
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