俳優乃至傀儡子の徒が一般民衆から蔑視された事實はないやうである。更に土耳古のカラギョス劇、印度の聖劇、西藏の樂劇、ビルマの舞樂、ジャ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の假面劇などに關しても寡聞な私は優人下賤の説を耳にしない。ただ茲に特種な意味を持つてゐるのは支那民族に於けるそれである。王國維の「宋元戯曲史」の卷頭には「歌舞之興。其始於古之巫乎。巫之興也。」とあつて、我が國の歌舞の起原が岩戸神樂の巫女の舞に出てゐるとするのと同一の意義を示し、進んで漢以前の俳優に就いては、「古之優人、其始皆以侏儒爲之。樂記稱優侏儒。」と云ひ、恰も中世歐洲宮廷の道化の如き位置を與へてゐる。爾來支那の優人は常に特殊階級を形造つて宮廷若しくは諸侯の庇護の下に發達し、それぞれの權力に隷屬せる下賤の民と見られてゐた傾きがある。例へば極最近に至つても上海梨園の某名優が某大官の夫人と通じたことが發覺して、數日街上に晒者《さらしもの》の刑に處せられたと云ふ新聞記事を十數年前に讀んだことさへある。これは元より罪の裁きではあるが、夫人の方はただ普通の處罰を受けただけで濟んだらしいのに、一方は名優と呼ばれる人でありながら前世紀遺物の野蠻な體刑を加へられた處を見れば、彼等優人階級が明かに普通人から差別されて一段下の賤民と見られてゐたことを示してゐると思はれる。
支那民族の優人蔑視と日本民族に於けるそれとは確に相通ずるものがある。それは何か。――私は今一つ茲に他の事實をつけ加へたい。亞弗利加蠻族のうちで最も原始的な民族であるブッシュメンは非常に藝術的な民族である。グローセの「藝術の始源」に依れば、彼等は動物説話や創世説話を持つてゐるのみならず、亞弗利加唯一の造形美術的天才を持つ民族であつて、線描の優れた技巧と、鮮明な色彩感覺とを兼ねて居り、山間に産出する鑛物性顏料を繪具として用ゐる術を知つてゐる。從つて斯やうな藝術的文化の上から云へば遙に他の種族を凌駕してゐるにも拘らず、彼等は他民族から常に劣等人種として蔑視され、壓迫されつつあるのである。何故にさうなつたか。
問題は遂に一つに歸するやうである。人類の原始時代に於ては彼等は凡て狩獵に依つて生活した。次いで水草を追ふ牧人の時代が來た。最後に農耕時代に入つて彼等は或る一定の土地に固着する事になつた。然るに或る種族はいつまでも農耕時代に達せず、依然として山野に鳥獸を追うて移動した。農耕民族には次第に土地に對する信仰が目覺め、土地をあらゆる生物の母とする大地母神崇拜の思想が起つて、一方には亞弗利加及亞米利加インディヤンの生殖器崇拜教を分派し、他方では印度及支那民族の自然崇拜教を創成した。かくて土地を有せざるもの、大地母神の恩惠に浴せざるものを劣等種として卑んだのである。亞弗利加諸民族とブッシュマンとの關係はこの點から説明せられる。
支那民族は世界に於ける最大の農耕民族であり、彼等が黄河流域に定着して農耕時代に入つたのは西暦紀元前遙かの太古である。彼等の文化彼等の思想の凡てがこの農耕神大地母神信仰に依つて説明されることは田崎仁義博士の研究に依つて明かにされた。(「支那古代經濟思想及制度」)。されば彼等が土地に定着せず、農耕の業にたづさはらぬ優人等を蔑視したのは蓋し當然であらう。
同じことが日本に於けるあらゆる非農耕民と農耕民との關係に見ることが出來る。孝徳天皇の大化の革新に依つて凡ては平等の人民となつたやうであるが、事實その區別は確然と保持されてゐた。上古日本の人民は治者階級に依つて良民と賤民と雜戸とに三大別された。良民と云ふのは即ち農耕の民に限られてゐる。賤民は官戸・家人・官奴婢・私奴婢及び陵戸の五つである(喜田貞吉博士)。即ち何れも奉公人奴隷的境遇に置かれたもので、唯陵戸だけは墓守・隱亡の類であつて、後に土師部が葬送を掌つてから之れと結びついた。雜戸は農耕以外の技術工藝雜役に從ふもので、例へば玉造部・弓削部・鎧作・樂戸・船戸・酒戸・藥戸・雜工戸・鷹戸・その他馬飼や犬飼・機織部・土師部等あらゆる業態を網羅して居る。彼等は聖武天皇に依つて一應平民と見做されることになつたが、更に之れ等のどの職業にも屬さない祝言人《ほがひびと》・遊女・遊藝人の徒が良民から賤民視されて卑しめられたのは、彼等が治者階級から認められた雜戸にも屬さない浮浪民であるからであつて、結局は農耕を尊重する思想から來て居るのである。
古い文化の淵源である京都には明治初年まで樣々な浮浪人が新年の祝詞《ことほぎ》に出て來たものである。大和地方から來る萬歳・或は春駒・チョロケン・大神樂・福助・鳥追、それから最も特殊な「ものよし」等々々。――この「ものよし」と云ふのは古老の談に依ると松原通鴨川橋の東詰、今稻荷の小社あるあたりから北、即ち現在宮川町遊廓のある處に天刑病者の部落があつて、彼等は平常市中に交通することを禁ぜられてゐたが、ただ一年に一度正月二日に限つて市内にもの乞ひに出ることを許されてゐた。そこでこの日彼等は笠に黒布子の切れを垂れて顏を包み、町家の軒毎に立つて「ものよし」と稱へながら施物を求めて歩いたのだと云ふ。天刑病者と遊女とが隣接して居住したこと(現在の宮川町遊廓は五條近くまで延びてゐるが、古くは四條附近に限られてゐたのではなからうか)、天刑病者の物乞ひも遊藝人の物乞ひも大して差別がなかつたこと、之れ等は何れも日本民族が土地に依つて自ら食したおほみたから農民をのみ尊んだ結果であると考へられるのである。
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附記。本稿終了後木谷蓬吟氏の「文樂今昔譚」に文樂座創設の事が出てゐるのに氣づいた。それに依ると、淡路の假屋から植村文樂軒(本姓は柾木)と云ふ人が現れて、高津橋(今の高津四番地)南詰西の濱側で人形淨瑠璃を興行した、これが文樂座創始で、時代は明和とも天明とも云ふが確かでないとある。何れにしても竹本座創設より百餘年後であつて、これは私の考へと同時に淡路操座元の人々の話をも大體に於て裏書して居る。
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底本:「芸術民俗学研究」福村書店
1959(昭和34)年3月1日発行
※以下のルビ中の拗音、促音を、小書きしました。「藝術《アマチュール》」「技術《テクニック》」
※「起源」と「起原」、「大神」と「太神」、「蛭子」と「蛭兒」の混在は底本通りです。また、以下の箇所で底本の誤植を疑いましたが、「藝術民俗學研究」立命館出版(1934(昭和9)年9月5日発行)でも同様であり、正誤の判定に困難を感じましたので底本通りにしました。「竹内勝太郎全集 第二巻」思潮社(1968(昭和43)年1月30日発行)では矢印の後ろの形になっていました。
○p147−4睛れやかな【睛→晴】
○p148−3布望したが、【布望→希望】
○p171−11黄金の採鑛精練→【精練→精錬】
入力:ブラン
校正:門田裕志、小林繁雄
2004年12月12日作成
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