それも近親ではなくて、近隣の人々に結んで貰ふ土俗があるのは、この産所の緒紡ぎと何等かの關係があつたことを暗示するものではなからうか。さうとすれば彼等はこの他村のやらぬ緒紡ぎを生業として、その傍、人形も舞はした。そこへ百太夫が現はれて最も進んだ西宮の操の方法《メトオド》と技術《テクニック》とを傳へて、彼等の人形舞はしに革命を與へた。そして淡路人形操の元祖となつた。とこんな風に解釋することが出來さうである。何れにしても淡路の人形が西宮に本源《オリヂン》を持つものであることは殆ど疑ひを容れない。
 百太夫定着の年代は元より明かでないが大體に於て鎌倉末期よりは下るまいと思ふ。そしてこの頃以後の人形がどの程度のものであり、どう云ふ經路に依つて發達したかと云ふことも到底適確には知る由もないが、操の各座元にはそれぞれ綸旨の寫しと、櫓の免許状と云ふものを持つてゐる。それ等の文書に記されてある年號もまた元よりそのまま肯定することは出來ないにしても元龜年間京師に上り、禁裡に於ける三社の神樂の際に召されて操を演じたと云ふことは大體信じていいことであらう。此時帝の御感に入つて從四位を賜つて居る。それから別に鷹
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