る。然るに淡路操座のある市村字三條は古く産所と書き、現在も尚地元の人々に依つて短く「さんじよ」と發音されてゐる。のみならず私の地元踏査に依つて百太夫社は夷社と合祀されて、三條八幡の攝社となつて居り、西宮の夷神社が廣田神社の攝社であり、百太夫社がその末社であるのと同巧異曲であることがわかつた。これで見ると西宮産所と市村字三條との關係が略※[#二の字点、1−2−22]想像されるのであるが、更にこの市村に隣接する廣田村の歴史が一層西宮と淡路との關係を密接にする。
 廣田村は古くは廣田郷と呼ばれた。淡路國名所圖會所載の「東鑑」の記事に依れば、「壽永三年四月二十八日、平氏在西國、之由風聞[#(ス)]仍[#(テ)]被遣軍兵、爲[#二]征罰無事御祈祷[#一]、以[#(テ)]淡路國廣田庄[#(ヲ)]被[#(ル)]寄附廣田社[#(ニ)]。寄進。廣田社神領。在淡路國廣田領一所。右爲[#(ニ)]増神威、殊[#(ニ)]存祈祷[#(ヲ)]、寄進如件。壽永三年四月二十八日。正四位下源朝臣。」云々とある。之れは西宮廣田神社の神領として淡路の廣田郷、今の三原郡廣田村を源頼朝が寄進したのである。廣田村には前記の通り廣田
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