却つてその座元所在の地名を被せて志筑源之丞と呼ぶのが通例になつて居るやうである。
上村源之丞座の由來に就いては既述の通り吉井太郎氏が發表されたやうなことが座元の人々に依つて傳へられてゐる以外に明確な資料は得られない。吉田氏や土地の古老の言葉を要約すれば、昔人形舞はしの百太夫と云ふものが三條へやつて來て、菊太夫と云ふものの娘と結婚したが、その間に出來た子に自分の業をつがせた。之れが淡路人形操の根元であると云ふことになつてゐる。そしてこの百太夫が道薫坊であるとも云ひ、百太夫が道薫坊と云ふ人形を持つて來たとも云ふ。それで見ると一應淡路の人形操は他地方から傳へられたものであり、百太夫がその祖であると解されるが、抑※[#二の字点、1−2−22]その百太夫と云ふものの本體が頗る捕捉し難いものであるから、結局これが疑問の焦點となつて來るのである。
處でこの百太夫が西宮の夷神社と關係の深いことは前記吉井氏の研究に依つて明かにされ、同社の末社に百太夫社があることも又それが西宮傀儡師の祭神であることも裏書された。そしてこの西宮傀儡師が定住した部落は今尚西宮市の西宮神社の北に地名として殘つてゐる産所であ
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