れたのが持腐れとなって居るからである
著者は去る八月中、東京帝国大学の御用出張という格で、明治時代の古新聞古雑誌を買集めのため、信越より東北の各市を巡ったが、到る所の古本屋は、皆右の持腐れにアグネて居た、新潟市の某店、弘前市の某店、盛岡市の某店などは、いずれも当分円本の古本は買わない事にして居りますと語った、著者は円本の状況視察として、何処へ行っても同じ問を発したのであるが、秋田市の某店では、不況の泣言などはならべず、ずらりと配列した円本棚のを指して「何しろ、アノ通りで少しも動かないのですからネー」と云って、大口を開けたままあとの語を発しなかった
そして一方、読者界の者が何故買わないかという問題、これは円本宣伝の大袈裟に釣られて、本というものは、親が買って呉れた小学の教科書を持っただけで、外の本は買った事もない連中までが、予約者に加わったのであるから、売る者はあっても買う者がないのである、少し気の利いた人々は、最初から円本に取り合わず、ヤスイ売り物があっても「ザマ見ロ」とばかりに冷眼視するだけで、買わないからである
残本屋の揃い物が少し売れたのは、何にしろ実価の安いものだから(一円本が
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