が髮を洗ふ
うまい工合に小供が早く寢たので
その隙に
臺所で火をカン/\起して湯を沸かして
ばら/\となつた髮をほどいた。
ところがあいにく櫛がめつから無い
箪笥の上の鏡臺の抽出にも火鉢の抽出にも
どこを探しても、家中探しても出て來ない
小供の目をさまさせないやうに
音をたてずに探す氣苦勞
とう/\櫛めは出て來ない
どこへ一たい隱れて居るのだ
折角御湯も沸いてゐるのに
赤ん坊もよく眠てゐるのに
とう/\妻は疳癪を起してしまつた。
とばつちりは俺に來る
俺もない/\はら/\して居たのだ。
何處かで見たやうに覺えがあるが
さて思ひ出せない
妻の探したあとを探してどなられる
可愛相に妻はとう/\本氣に腹を立てた
恐ろしい呪の言葉が口をついて出て
箪笥の上の俺の本は疊の上にぶちまけられる
自分位不運な者は無い
小供なんかいらないと恐ろしい事を云ふ
俺も負けないで賣言葉に買ひ言葉
とう/\二人は默つてしまふ。
妻は自暴半分で髮を洗ひ出す
俺は如何うかして目つけてやりたいと
親切氣を出して探し廻る音に
あいにく子供が泣き出した。
可愛相に赤ん坊は眞赤になつてすかしてもだましても泣く。
眼には恐れと苦しさが一杯涙とまじつて見える
濡れたまゝの髮で妻が臺所からやつて來る
見馴れない形相に赤ん坊は變な顏
枕の上に布をあてがつて濡れた毛のまゝ
妻は添寢をさせて遣る。
小供は安心して眠つてゆく
臺所ではやかんのふたが踊り出し
水と火が喧嘩を初める
俺は櫛めを又探す
然し櫛めは何處かにはさまつて出たくても、
出られないでもがいてゐるにちがひない、
その隙に小供の床からぬけ出した妻は
新しい櫛を買ひに闇にまぎれて走つてゆく
小供はもう眼はさめない。
夜が更けても妻は鏡臺の前に腰を据ゑて
遲くまで眠ら無い。
鏡臺の抽出が急がしく開けたてされる音と
リスリンを手につけてこする音が隣りの室から聞えて居る。
自分は見た
自分は見た。
とある場末の貧しき往來に平行した下駄屋の店で
夫は仕事場の木屑の中に坐り
妻は赤子を抱いて座敷に通るあがりかまちに腰をかけ
老いたる父は板の間に立ち
凡ての人は運動を停止し
同じ思ひに顏を曇らせ茫然として眼を見合して居るのを
その顏に現はれた深い痛苦、
中央にありて思案に咽ぶ如き痛ましき妻の顏
妻を頼りに思ふ如く片手に削りかけの下駄をもちて
その顏を仰いだる弱々しき夫の顏、
二人を見下ろして老いの愛情に輝く父の顏
無心に母の乳に食ひつく赤兒の顏
その暗き茫然として自失したる如き光景を自分は忘れない。
それを思ふ度びに涙が出て來る。
何事のありしかは知らず
されど自分は未だかゝる痛苦に迫つた顏を見し事なし
かゝる暗き光景を見し事なし
子供の首
何か子供の首を包んで居る。
うしろから見ると
枕ずれのしたちゞれ毛が
美くしい白い肉を包んで居る
草が地面に生えるやうに
白い肉もそこで育つのだ。
子供も一緒に
美くしい髮もそこで育つのだ。
地球と一緒に、
或夜
父の家を出づれば
夜は悲し
代々木の原の上に
涯しなく高く闇は佇み、落ちかゝり
星の光りも僅かに力無し
土手の上の線路の側を
人は徘徊し
悲しく犬の遠吠は聞え
使に出された小き女中が
土手の下の闇をすれちがひ走りぬ
白き犬と共に、
散歩する人
巣鴨の奧の片田舍
日かげ照り添ふ畑道を
用も無い身の
冬仕度せる人、散歩せり
その一人々々は異樣なり
近づくのが恐いやう
年代を經し無慘なる印象
その身を包む外套のかげより現はれたり
その顏の立派さ、恐ろしさ。
乳
母親の乳の張つて痛んで來る時
小供の腹は餓ゑて來る。
與ふる者と與へられる者は、
一つとなつてしつかりときつく抱き合ふ。
乳はひとりでに滿ち溢れ出る
赤ん坊はむせかへつて怒る、
母親はどうする事も出來ないで氣を揉むが、乳は出過ぎる。
遠慮なく響いて出る
充ち滿ちて出過ぎる苦しさ。
與ふる者の苦るしさ。
赤ん坊は母親と苦るしんだ上句、
自然に響いて來るのをごくり/\と呑む。
人形
赤ん坊は淋しい、
何となく淋しい
未だ口もきけないで、僅かに聲を立てゝゐる赤ん坊は淋しい
居るか居ないのか解らないやうにおとなしいから。
眼をつむつたり、開いたり
泣くのにも笑ふのにも
まるで人形のやうに、内の命じるまゝにおとなしく從つてゐるから。
見て居ると涙が湧いて來る
尊いものを見た時の樣に。
[#地から1字上げ](一九一六、一二、二九)
眼
眼よ、眼よ、不思議な眼よ。
赤ん坊の眼の動かぬ時の凄さ
充ち滿ちて溢れるものに迷ふ畏怖の眼だ。
何かゞ赤ん坊を内から動かしてゐる氣がして來る。その眼!
眠りから覺めた時によくする
苦るし相な目、生氣に滿ちたあの悲しい眼!
自分は眼を閉ぢ度くなる
あゝ眼、眼を造つたものは何だ。
寂しい處で眼を造つたものがあるのだ。
優しくしたり、恐くしたり、その眼に生氣を與へる者があるのだ。
赤ん坊
赤ん坊は泣いて母を呼ぶ
自分の眼覺めたのを知らせる爲めに
苦るしい力強い聲で
母を呼ぶ。母を呼ぶ
深いところから世界が呼ぶやうに
此世の母を呼ぶ、母を呼ぶ
北風
烈しい北風が吹き止んだ。
太陽が落ちると同時に
まるで申し合はせたやうに
地上のものを思はせる、確りした平和の夕暮が來た。
一層深く淨められた夕暮が來た。
惱みが鎭められたやうに。
雪
雪が降つて世間の騷ぎが鎭つた。
人間は漸つと自分に歸つたやうな氣がする。
立派な永遠の法則に從つたやうに
同じやうな明るさと、
同じやうな靜かさが地平線の奧までひろがつて來る。
この靜さと光りの中に魂は安息と平和を得た。
永い苦るしみが忘られて、
自分等は行く道を見出したやうな氣がする。
古い地上の道は雪の中へ埋れて
新らしい道が空とぶ鳥のやうに自分等の胸に見出された。
自由と平等と安息と平和の道だ。
[#地から1字上げ](一九一七、一、二午後)
小供
自分の小供は可愛相な程御世話燒きだ。
猫に袋をかぶしたり、ふろしきを冠せると
すぐとつてやらずにはゐられない
一生懸命になつてとらうとする
とれないと泣き出す
とつてしまつて猫を見ると非常に喜んで笑ふ。
今日も襖の明いて居たのを妻にしめさせると、
それが小供には氣に入らなかつた。
で又襖を明けさせた。
今度は自分で明けさせたと思つて? 泣き出した。
それが胸の中から一生懸命である。
氣にして居るのだ。
本能的にするのだ。
變つた事が恐いのだ。
危險な事が嫌ひなのだ。そのまゝ無邪氣な事が好きなのだ。
自分の小供は生れて未だ一年になつた許りだ。
小供は實に潔白だ。いゝ加減な事が嫌ひである。
小供の氣に向かない事をさせるのは惡いと思ふ。
可愛相だ。大變心配する。
かう云ふ氣性を失はないで育つてくれると面白いと思ふ。
然し餘り可愛相な氣もする。
[#地から1字上げ](一七、九、八)
靴を買ひに
御母さんに手をひかれて
小供は靴を買ひに行つた。
たつた二日で初めて買つたズツクの靴を破つてしまつたので。
今度はもう少しいゝのを買ひに。
白い洋服に麥藁帽、赤い靴下をはいて
ぬかるみを拾ひ/\チヨコ/\歩いてゆく
赤い足の白い鳥のやうに
お尻のところからパツとひろがつた服を着て
町へ買物に御出かけ。
無邪氣な女と小供よ。
氣をつけて行け危いから
よつぱらひに會はないやうに。
荷車にひかれないやうに
[#地から1字上げ](一七、九、八、愛の本所載)
○
今日は何と云ふ晴天
風があるので日の光はすさまじく
何となく神祕的なまよはされるやうな日だ
空はまつさをにまよはすやうに
地上のあらゆるものは亂れて輝き溢れる。
[#地から1字上げ](一七、九、八、愛の本所載)
○
小供がものを食べる時を見て居ると恐くなる
本能そのものを見るやうだ。
恐いやうに食べる。
どんなものも噛み碎き嚥み下ろし飽くを知ら無い恐さを感じる。
異樣の恐さを感じる。
ドーミヱを思ふ
寢床の中で
小供が仰向けになつて怒つて泣いて居る
口を一杯に開けて
涙が兩眼から眞赤な頬に溢れて濡らしてゐる
小さな顰んだ顏の眞中に
鼻が小高く突立つてゐる。
面白い恰好だ。
ドーミヱを思ふ。
此世の空氣の中の一つの光景。
[#地から1字上げ](一九一八、二、三日)
小さき金魚
となりの人は引越した。
主人が發狂して田舍へかへり
殘つた妻君と十二三の憂鬱な娘とは何處かへ間借りをする爲めに、
三羽の鷄を賣るのは哀れだと云ふので親類に預け
一匹の金魚を俺の金魚の中に殘して行つた。
自分は妻の留守にフト水瓶を覗くと
小さな、小さな苔のやうなものが瓶の隅で
ピチヨ/\と動き廻つてゐるのでびつくりした。
「おや金魚が生れたのかしら」と不思議に思つた。
よく見ると灰色に少し紅の交つた眼玉の飛び出した支那金魚なので。
フト思ひ出した。あの娘が可愛がつてゐたのを放して行つたのだなと。
自分は危く涙がこぼれ相になつた。
灰色に少し紅の交つた眼玉のとび出した小さな金魚が赤い大きな
金魚の群の中で、瓶の隅を一匹でチヨピチヨピと動き廻つてゐる哀れさ。
今生れた許りのやうなフヨ/\した眼にも餘る小さな金魚、
あの娘のやうなあの顏色の惡い、眼の大きい、
氣違ひの遺傳でもあり相な、あの哀れの娘のやうな
生たものはどんなものでも殺す事が嫌ひだと云ふあの娘のやうな、
三羽の鷄に別れて、明日から玉子が食べられないと云つて、
今日産み殘して行つた玉子を大事にしたあの娘のやうな
思ひが殘つてゐるのではないか
あの淋しさうな金魚、チヨピ/\と水をはねかす金魚、淋しい金魚、
自分と前後して縁日で買つた五匹の中一匹生き殘つてゐた、
あの小さな金魚、御前も決して無情ではない。
あれを見る度びに俺は娘を思ひ出すだらう
淋しい哀れな、御父さんに別れて、
御母さんと淋しい他人の家の二階へ行つた娘を御父さんと別れてから
あの御母さんの元氣なささうにくらしてゐた事を
俺は忘れないだらう
あの淋しい人達……幸福でつゝがなくあれ。
[#地から1字上げ](九、二十一日、愛の本所載)
三人の親子
或年の大晦日の晩だ。
場末の小さな暇さうな、餅屋の前で
二人の小供が母親に餅を買つてくれとねだつて居た。
母親もそれが買ひたかつた。
小さな硝子戸から透かして見ると
十三錢と云ふ札がついて居る賣れ殘りの餅である。
母親は永い間その店の前の往來に立つて居た。
二人の小供は母親の右と左の袂にすがつて
ランプに輝く店の硝子窓を覗いて居た。
十三錢と云ふ札のついた餅を母親はどこからか射すうす明りで
帶の間から出した小さな財布から金を出しては數へて居た。
買はうか買ふまいかと迷つて、
三人とも默つて釘付けられたやうに立つて居た。
苦るしい沈默が一層息を殺して三人を見守つた。
どんよりした白い雲も動かず、月もその間から顏を出して、
如何なる事かと眺めて居た。
然うして居る事が十分餘り
母親は聞えない位の吐息をついて、默つて歩き出した。
小供達もおとなしくそれに從つて、寒い町を三人は歩み去つた。
もう買へない餅の事は思は無い樣に、
やつと空氣は樂々出來た。
月も雲も動き初めた。然うして凡てが移り動き、過ぎ去つた。
人通りの無い町で、それを見て居た人は誰もなかつた。場末の町は永遠の沈默にしづんで居た。
神だけはきつとそれを御覽になつたらう
あの靜かに歩み去つた三人は
神のおつかはしになつた女と小供ではなかつたらうか
氣高い美くしい心の母と二人のおとなしい天使ではなからうか。
それとも大晦日の夜も遲く、人々が寢鎭つてから
人目を忍んで、買物に出た貧しい人の母と子だつたらうか。
[#地から1字上げ](一九一六、一二、三一夜)
[#地から1字上げ](以下五篇、生命の川所載)
夕刊賣
十一月のびつしりと凍えた夜
街の四辻に女は新聞を賣る
彼女の脊中には三つ位の小供が掻卷にくるまつて、
小さな頭のうしろだけ露はに晒し出して、
顏を脊中にう
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