づめて居る。
女はうろ/\と電車道を突切つたり
彼方へ行き、此方へ走る。心も體もいそがしい、
脊中では凍えて小供は夢路を辿る。
霜の下りたその頭は星のやうに輝いて見える
女は走る。買つて呉れ手が無いかと眼を四方に配る。
然うしてしきりなしに叫ぶ。泣くやうに叫ぶ。
道で主人にはぐれた犬のやうに、
人さへ見ればかけ出す。
あつちへ迷ひ此方に走り寄る。
着物を通す寒さも忘れて
氣違ひのやうに夜ぴて行つたり來たりしてゐる。
小供の首は母の頭のうしろから走る度びにうなづいてゐる。
時々眼をさますと顏をつき出して、寒い不思議な世界を見る。
その中を氣違ひの樣に母は走つてゐる。自分も走つて居る。
彼は男の子だ。
おとなしい顏をした目の利こうさうな男の子だ。
彼は母親の走るのを見て居る。母親は話しかけてくれないから
自分も默つて居る可きものと思つて默つて居る。
何の爲めに毎晩かうして
寒い中を母親が走るのか、彼は未だ知ら無い。
時々男の人が母親の前に立つて何か話して行つてしまふのを見る。
彼はその人を見送る。いゝ人なのだらうと思ふ。
輝いた電車を見る。行きすぎる人を見る。星を見る。
飽きてしまふと顏を脊中に埋める。そこは少しはいゝ具合に暖い。
もぐれるだけもぐる。頭のてつぺんが寒い。
然し彼はその搖れる脊中の上で眠る。
三枚一錢、三枚一錢と云ふ母の叫ぶ聲と、
何だかわからない大きな火の燃えるやうなごう/\云ふ夜の子守唄を聞き乍ら
幸福さうにねむる。腹も未だ減らないし、小便も出度くないから。
さうして夜ぴて母と小供は走るのだ。
三枚一錢、三枚一錢……しつきりなしに走るのだ。
電車は來ては止り、行つてしまふ。
夜はごう/\唸つて更けて行く。
それから疲れ切つた母と子とはどこかへ歸つてゆく
小供は今度は母に話しをかける事が出來る。笑ふ事も出來る
二人は話し乍ら歸つてゆく。小供は笑ふ。いゝ聲で笑つて。
四邊を響かせ乍ら、彼等は家へかへつてゆく。
[#地から1字上げ](一九一七、一、二夜)

  或夜

小供は眠つた。家の中は靜かになつた。
苦るしい沈默が室の中にある。
妻も夫も默つて小供を見守つてゐる。
小供は馬鹿に大きく見える。
妻の腕に抱かれて足を伸ばしてゐる。
ひつくりかへつて居るのが可笑しいやうに。立派な男の子だ。
見て居ると夫も妻も緊張した苦るしさを感じる
氣の遠くなる樣な冬枯の夜で
空にはどんよりとした月と白い雲がじつと動かずに凍てついて居る、
苦るしい/\永遠の沈默がある。
萬物が同一の法則に漸つと歸つたやうな靜かさだ。
小供は苦るしさうに、壓し出されるやうな吐息をつく
それが靜かに空氣を動かす。
さうして幸福に夢見てゐるやうな安心を與へる。
然し夫と妻は矢張り默つて居る。
遠い遠い過去と未來を何も解らず夢見て
[#地から1字上げ](一九一六、一二月)

  貧しい母親

高い煉瓦の壁の中で
赤い着物を着てゐるのを見たら
乳は上つてしまつた。乳は上つてしまつた。
乳呑兒を抱へて、四歳位になる男の子を片手につれて
貧しい母親は誰にでも饒舌る。
師走の寒い電車の中で、何も彼も棄てゝしまつたやうな目付をして。
高い煉瓦の壁の中で
赤い着物を着てゐるのを見たら
私の乳は上つてしまつた。乳が上つてしまつた。
これぽつちか出やしない。
[#地から1字上げ](一九一六、一二)

  納豆賣

日の出前の町を
納豆賣の女は赤ん坊を脊中に縛りつけて
鳥の樣に歌つてゆく
すばらしい足の早さで
あつち、こつちで御用を聞いて
機嫌のいゝ、挨拶をして
町から町を縫つて
空氣を清めて行く
鳥のやうに早く、姿も見せず歌つてゆく
私はあの聲が好きだ。
あの姿が好きだ。
[#地から1字上げ](一九一六、一二)

  蘇生の思ひ

冬になるとよくこんな晩がある。
空が曇つて何となく悲しい壓迫を人が感じる
凡てのものが火が消えた樣にしづまり
遠く潮の引いたやうな空の感じがする。
自然が何か計畫をして居る爲めに遠くの方へ
そこへ力が皆んな行つてしまつたやうな氣がする
用も無いのに町へ出て見てもどこにも活氣が無い
家々は白く氣味の惡い氣の拔けた恰好をして居る。
どこか遠くの方で道路を工事する
大勢の人間の掛聲が聞えるそれにも力が無い
どうする事も出來ない寂寞を感じる。
家へ歸ると出し拔けに友達がたづねて來る。
何かもの足りなかつたのはこの友を待つて居たのだと思はせるやうに
然し一寸驚く。やつとわかる。
友も誰か來るのを待ちくたびれて出て來たと云ふ風だ。
淋しい泣きつくやうな氣難しい憂鬱な顏をして居る。
かゝる時の嬉しさ、蘇生した思ひがする
自分達は外の事を忘れてしまつた
打ちくつろいで熱心に文學を話す。心の中には火花の散る思ひ。
かくて友を送つて外へ出て見ると
天氣はすつかり變つて雲の間から星が見える
何を自然は企んでゐたのか
自分達は明日の天氣を告げ合つて
別れて歸る。
[#地から1字上げ](一九一六、九、二一日)

  冬の朝

今年になつてから珍らしい寒さだ。
雲が多いので日が未だ地上に屆か無いのだ。
雀までも巣から飛び出さないのか聲がしない、
いつも勉強の納豆賣ももう通つてしまつたのか、
こつちが寢過したのだ。
起きて見ると日はもう登つて居るので、
凍え死んだ樣な雲がだん/\色づけられて、
漸つと動き出す地上ではところどころでずるい雀の聲がする、
人間は午後からのすばらしい天氣を見越して
生きかへる樣に喜び、
珍らしい寒さを元氣づいた聲で口々に語り合つて居る。
その内に雲はすつかり蘇生して
旅を續けて何處かへ滑つて行つて仕舞ふ
霜に飾られた木々の梢が、濃やかにぼかされて
雀は屋根の上に飛び出して來て揃つて啼き出す
啼く音がだん/\高くなる。
家の中は人が居なくなつたやうに靜かだ。
寢飽きた赤ん坊が床の中で一人言を云つて居る
[#地から1字上げ](一九一六、一二、二二日)

  夕暮の一時

冬の宵の口である。
朝から吹き通した寒い北風はぱつたり止んで
室の中も外も靜かになつた。
深林か谷底の樣に
自分は机の前に坐つて居る。
妻は側に赤ん坊を抱いて坐つてあやして居る。
赤ん坊は妻の胸に首を埋めてゐる。
小供は眠たいのだ。半分頭はねむつて居るのだ。
心は夢の境を辿つて居るのだ。だが彼は落着かない。
急に何か活動しかける。鼻を鳴らす。
自分の心も落着かない。妙に苦るしい。然うして寂しい。
疲れ切つた妻は一生懸命に歌をうたつて居る。本當に向きになつて
それを聞いて居ると自分の眼にも涙が滿ちて來る。心は重たい。
これが幸福なのかしら、この苦るしさと悲しさが。
何か爲なくてはならない事がある氣がする。
誰かに罪があるやうな氣がする。
誰にも謝り度い氣がする。
あゝこの苦るしい夕暮の一時。
神よ吾等の罪を宥し給へ。
吾等をみ心のまゝに導き給へ。
[#地から1字上げ](一九一六、一二、九夕)(青空所載)

  雀

親鳥が巣にかへる時
待ち受けた小さい雛は黄い口を裂ける程開いて
夢かと許りに喜んで啼き、その喜びに死んでもいゝと喜んで啼き、
あらゆる感動の階音を刻んで啼き
全身を緊張させ、ふるはせ、未だ飛べない羽を空に向つて擴げ、
感謝と喜びを示し
親鳥から餌を與へて貰はうとする、
もどかし相なその姿は實に親しげだ。實に優しい
その急がしい窒息する樣な聲も、
その待ち切れないで落着かぬ氣の狂ひ相な身ぶりも、
嬉しさに千切れるほどふるふ羽も
小さい全身に滿ちる喜びを有り餘る程現はし、
親しさをこぼし、然し餘り小さく、
あゝ餘りに小さくて
その生きようとする樣は、人に哀れを起さしめる。
[#地から1字上げ](一九一六、七、一五)

  夜の太陽

或夜
母の膝に小供は腰をかけて運動してゐる
その顏は赤く輝いて笑つて居る
うしろから小供にそつくりな母の顏も快く笑ふ
健康に滿ち溢れた力強い美しさ
赤い夜の光の艶々しさ
今は見え無い太陽が
夜を貫いてこゝに愛撫の手をのべる。
二人の首を飾るのもその輝きだ。
岩疊な顏に優しく溢れる血汐の喜び
どこにも不健康のしるしは見られ無い
力を出しすぎる位
いくらでも笑ひつゞけてゐる小供と母の顏
樂々とした笑ひの中に肉が躍り
神々の喜びがゆらぐ
肉體を精神が活氣づける。
心靈の波が深いところから溢れて來るやうだ。
死せる者も甦らうとするやうに
此世に爭つて顏を出す
亂れて湧きかへる力強い心靈の波
波の中から此世に生れる歡喜の姿
赤き夜の光りに輝く
母と子の笑ひの美しさ
[#地から1字上げ](一九一七、一二、三一)

[#地から1字上げ](以下十三篇、使命所載)

  冬

太陽は日に日に遠くなる
急いで空を走つて行くのが眼にまで見ゆる
日はだん/\と短くなり
晝間の中から月が出る。
母體に小供がたまつた樣に凡てのものが
逆まになつて凝結して眠り
野に出て見れば小川はせつせと流れ
岸に簇る木立はすつかり葉を落し盡して一番早く大膽な眠りにつき
小鳥の聲が美しく小さく響く。
町に出て見れば
往來には人通りが減つて來た。
小供が默つて足音も無く通つた。
大膽に月の世界から來たやうに
皆んな默つて行來してゐる。
人の上にも冬が來た。
もう浮いた話は聞かれない
人はにんしんした女房の眠るのを叱ら無い夫のやうに
忠實《まめ》に働く許りだ。
神聖な眠りをさまさないやうに。

  猿

自分のあとになり、先きになり
女の猿廻しが二人連れ立つて夕暮の町を歩いて行く
男のやうに筒袖を着て、白い脚絆に鞋かけ、スタ/\と歩いてゆく、
脊中に脊負つた辨當箱の上に一匹猿が横向きに乘て居る。
薄桃色の顏と同じ色の可愛ゆい耳をもつた胸だけ白い灰色の奴だ。
不安さうに搖られ乍ら體を女の脊中に赤ん坊のやうに寄せ掛けて
時々キーキーと啼いてゐる。
側ではし切り無しに電車が通る
深山の奧から一匹
仲間に別れて來た小猿は
ひもじいのか恐いのか眠りもしないで
寒い空氣の中で恐さうに眼を光らして居る。
二人の女猿曳は話し乍ら實にスタ/\歩いてゆく
地の上はすつかり暗くなつて
坂の向ふには建て込んだ都會の家々の間から
赤い廣告燈の上に
大きな滿月が浮び上るのに
息をつく隙も無く二人はセツセツと歩いてゆく
あたりの騷ぎにはまるで頓着無く
月の下では町の生活の呼聲が寄せては返へす波のやうに
恐ろしく聞える。
人を攫つてゆく狂氣した波だ。
その中で人間がわめいてゐる

心細い漂泊の猿よ
御前は俺のあとになり、先きになる
俺の考へてゐる内に御前は先になつてしまひ
俺が急ぐとあとになる。
今夜はどこで御前は一人で眠るのだ
どこまで行つても御前はその女主からはのがれられはしない。

筒袖をブラ/\させて懷手をして行く仲間も
胸に太鼓をぶらさげて御前をおんぶしてゆく人も見たところ貧しい、
淋しい、いゝ人らしい
御前は一人島流しになつたやうに不運だが
三人一緒に世渡りして行くのだ。
皆んな哀れな此世の道連れだ。
心細い夕暮の悲しさに小猿はキイ/\啼き
女は二人で今日のまうけの事でも話し乍ら
然し少しも調子をその爲めに弛めないで
いそいでゆく、實にいそいでゆく。どこか場末の宿へ
[#地から1字上げ](一九一七、一二、二八日)

  冬の日の入り

今日は慘しい冬の日の入り
立止つて祈る人も無い破鐘が鳴る
人々は薄れて行く寒い光の中で
歩みをとゞめ無い。
皆んな孤獨で、男も女も急がしく追はれて行く
大膽な世渡りの光景だ。

  電車の隅で

電車の隅で
本を讀んで居た
未だ暮れ無い光の中に
燈が柔くついた
長い夜の來る知らせを齎らして
走るやうに柔い光が自分の心を照らした
氣がつけば電車の中は混雜して走つてゐる。
初めて見る人計り立つたり、坐つたり、一杯だ
窓の外を見れば未だ日はくれない
日は落ちようとして苦悶してゐる
荒い冬の日の中に
見知らない人々が住む屋根が
恐ろしい色をして建て竝んでゐる。
苦るしい孤獨が
自分を再び夢の中へとり戻す
病氣の快復の希望を認めたやうに
柔い燈の下にてらされて自分は夢見る。


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