兵隊が澤山通つたあとの獸の皮の匂ひのやうに
然うしてサラ/\サラ/\と毛の戰く音がした。
臆病な、早くも死を嗅ぎつけた魂の顫へる音だ。
大小、七八匹の犬が赤や黒や白いのが一つ隅つこにかたまつて
サラ/\サラ/\と毛の音を默つてふるはして居た。
淋しい日の目もくらい音だ。
別れの音だ。
俺の飼犬はゐなかつた。
助つた。
だが、如何うして俺は皆んな戸を開けて逃がして遣らなかつたらう。
空中の詩
今日は久しぶりの天氣だ。
だが風が冷たい。一月二月頃の風のやうだ。
どこかで凧をあげてゐないかと思はれる。
久しぶりに子供を連れて散歩する。
原に行くと、遠く富士とその連山が見えた。
目に見えぬ風は空中に滿ち、雲は皆んな動いてゐた。
冷たいけれど、ぢつとしてゐると日は暖く、
凡てのものがそのまゝに生きた詩だ。
自分の心は透明になつて空中に聳える高い富士や
その他の山々の姿を恐ろしく感じた。
道へ出れば、
小學校がへりの子供が、二人、三人づゝ組んで、
何か聞え無いが話し合つて來た。一人が聞き一人が饒舌つて
女許りの群が通つた。一人は母親らしく二人は※[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「ノ」)、「姉」の正字」、22−中−9]妹らしく、
一人は子供を脊負ひ夫の噂をして通つた。
もう再び歸つて來無いものゝやうに
羽の薄い蜻蛉が羽だけ光らしてとんで居た。
外氣の中に一日を過せば自分は幸福だ。
空中に見えるものを見れば自分は敬虔の念に打れる。
[#地から1字上げ](十一月五日)
彼は
彼はどこにでも居る。
生命の火はどこにでも居る。
何處にでもめぐり、何處にでも隱れて居る。
氣がつけば彼は露骨だ。
彼は水の中にもゐる。魚となつて水の中にゐる
美くしい金魚となつて瓶の中にも居る。笑ひの中にも涙の中にも
彼は人々がいやがる雨の中にも、闇の中にもゐる。
木の中にもゐる。女や子供や犬や猫の中にもゐる。
見よ、どこにでも彼はゐる
露骨なる彼は。
或る夕暮
夕暮、暖い靄が天と地の間に濛々と湧き起り
晴れた空には光り初めた許りの星がゆつくりと光り
廣大な同情と慈惠はおだやかに地上に降りて來る。
街道に竝んだ小さな家々には灯がともつて
食卓につく家族があらはに見え
戸口の闇にわだかまつて白い犬に食物を與へる少年があり
道端のところ/″\に休んで居る荷馬車の黒馬は
その脊や立髮に金を交へて異形な天馬のやうに
靜かに默つて、居酒屋に入つて居る主を待つ。
人は疲れて頼り無く歩いて行けば
薄闇の深いところから浮き出して
乳房のやうにふくらんだ凸凹の面白くついた地面が
星の中から見たやうに僅か許りはつきりと
子供を顏のとこまで抱き上げて
そのニコ/\した白い顏に見入るやうに、ふと見えて永久に消えた
生白い蝋骨のやうな固い地面が古いたしかな親しいものに感じられ
不思議な恐れと感喜が暖かに甦る。
人は忽ち小さな自分を脱して
無限の同情のある優しい力を與へられ
靄に包まれて見え無い行く手に
身をまかせてスタ/\歩いて行けば
不思議のやうに靄は薄れて行き
ところまだらに空に現はれ、天國は開け
今つくられた許りのどろ/\した星は恍惚として現はれ
人は「如何んな小さいものも大きな天體と一致してゐる」と
思はずには居られ無くなる。
[#地から1字上げ](十一月二十四日)
子供の動作
子供は不思議な動作に富んで居る。
子守唄をうたへば
必ず何事を捨てゝも母の元へ飛んで行つて非常に落着いて膝を跪き
靜かに念を入れてその頭を母の肩の邊に押し當てゝ顏を隱し
嬉しき事あれば誰れにでも好んで接吻を求め
或は兩手を祈るやうに組み合はして口のところへ置き
持つてる物をとらうとする時
奪ひとらうとすれば爭つて離さず
手を合して頂戴をすればいそいで與へる
この本能的な動作は實にシンプルで貴い
教へられ無いでする
接吻や合掌である。
自分は子供の天性の中に
過去が現在となり未來となつて
永遠に連つて行くものを見る氣がする。
[#地から1字上げ](十一月二十四日)
朝飯
朝、家の中に日の光りが舞ひ込んで來て
天井に輝く
その下に食卓を竝べて
妻と自分と子供と坐る。
妻は自分達の食べ物を一人で働いてよそつて呉れる
自分と子供とは待ち兼ねて手を出す
この朝は少しも寒いとは思は無い。
皆んな默つて食べ初める。靜かだ。
思はず祈りたくなる
顏に力がこもつて幸福だと默つて思ふ。
妻はいろんなものに手を出す子供をちよいちよい叱る
子供も負けて居無いで小ぜり合ひをやる
日は暖に天井で笑ひ室内に一杯になる
[#地から1字上げ](十一月二十日)
夕暮
夕暮、日はもう沈んで
足の踏み場も無く
亂雜な地上となる。
何に躓くか分らない程暗く
すばやく背景のとりかへられる
大きな劇場の内部のごとく
自分の胸は早鐘を撞き
不思議な譯のわから無い歡喜に燃えて歩む。
自分の腕の上には子供がゐる。
子供は自分の手の上から、地上に下り度くて
もがくけれど
次々に忙しく變る景色に心を奪はれて之れも忘れ
小さな體の方向を手の上でくりくり更へて
黒眼を燃やし
餘りに近く行き交ふ人を眺め、それに交る馬や犬を見出して
天文學者が新しい星を發見したやうな奇妙な喜びに興奮して
自分に指し、叫んで、告げる。
天の一方には
久しく待れたものが滿願に達し
然かも惜し氣も無く成就されたものを燒き棄てるやうに
眞赤に燃えた巨大な雲の五六片が
亂雜に一つ所に積み重つて崩れ
その前には今にも燃え移りさうに
數本の木立が明るい反射を受けて、はつきりとそよいで立ち
葉の落ち盡した枝や梢は白熱して
灰のごとくふるへつゝ眩ゆく輝き
燃え切ればくづれ落ちるごとく立ちつくし
ずつと遠くには火の子のやうに彼方此方を星がとぶ
又見る、此方の青黒い原の上には
いつの間に此處まで來たのか
恐ろしい速力を有つて
大きな金星が餘り眞近く來て
其處にぴつたりとゞまり
逸早く先驅者の使命を完うしたやうに
清い焔のやうな熱い息をついて搖れ返り
過度の勢ひで來過ぎたやうに
少しづゝ目だた無い樣にあとじさりをし乍ら
中心を保つてらん/\と澄み渡り
その周圍の炎えるやうな空氣の中を
星を乘せて來て不用になつた魔法の翅の
雙ひ蝙蝠が
餘り遠くへ離れ無いで
地に觸れて盲のやうに夢中に歡喜して飛びめぐる。
又此方の原の上には
何處から出て來たのか
眞黒く焦げたやうな人影が
無數に入亂れ、高くなり低くなり、現はれ、消え
列をつくり
前に行く者をじれつたく思ふやうに追ひ越さうとしてのめり、
重り合つて急ぎ列を亂し、廻り道をして行く者もあり。
あらゆる方向に我れ勝ちに
不思議な力でいそぐ。
又此方の庭園の靜かな黒い木の間からは
忽然として大きな滿月が
ほとんど地に觸れて
靜かにせり上り
早くも、黄色い暖い光りは
富める家の奧深い茂みを越して
おしやべりに夢中で裏手の往來を行く
同じ年頃の氣の合つた四人の若い女工の
白い顏や地味な姿にはつきりと照りつけて
鳩の胸から出るやうな感嘆の聲を發さしめた。
かくして凡てのものが
何か完うする爲めに
いそぎ、競つて
我れ勝ちに
神の速力をもつてその任務につく
この夕暮の不思議な力よ
かくして亂雜な背景はとりかへられ
騷ぎしづまれば
月も星も高いところにはね上り
天と地は整然とへだてられてしまふ。
[#地から1字上げ](十一月二十三日)
星
夜ハガキを出しに
子供を抱いて往來に出た
郵便局の屋根の向ふの
暗闇の底から
星が一つ青々と炎えて自分の胸に光りをともした
自分は優しい力を感じた、氣丈夫に感じた
宇宙を通して火はめぐつて居るのを感じた
至る處に優しい力がまき散らされてゐるのを感じた
自分の内と星は同じ火でつくられ、同じ法則に從つてゐると思つた
暗闇の底にある遠い星も自分で動かす事が出來る
優しい力で動かす事が出來る。
往來で
町を歩けば
何か自分を貫いて來る
行き交ふ凡ての人の運動の中を
無言の挨拶が貫いて居る。
思はず自分は後しざりして歩いて行く
或る力が自分を押し流す。
子供の時
丸い團子を描いて
それを串を描いてさし通すのが變に面白かつた。
一氣にうまくさし通せば喜んだ。
同じ事を幾度くりかへしても面白かつた。
あの手應へを感じる。
白い温室
自分は妻と子供と三人で
まる三日間、かし家を探して歩いた。
何處にも無いのでがつかりした。
或日もう夕方近く、
三人は大きな邸の裏庭のあらはに見える道に出た。
自分は妻の疲れをいたはつて話し乍ら、
どつちへ行かうか迷つて居た、
その時ゆくり無く
自分の眼には
冬枯のさびれた裏庭の隅に
疎らな木立を透かして
ガラス張りの大きな白い温室が少し靄に包れて
無人島に漂泊した人の憔衰した眼に
偶※[#二の字点、1−2−22]暗い沖を通過する白い朦朧とした汽船を見出した喜びのやうに、
靜かに暖い美の姿を現はした。
自分はびつくりしてはつきりは見なかつた。
その必要はなかつた。
幻で澤山だ。自分は再びそれを見るのが苦るしかつた
眼を反らした。
自分は妻を顧みて身顫ひをして
「仕事がしたい」と叫んだ
妻は疲れた顏をして默つて自分を見上げた
然うして二人は庭の垣に添つた道を通り過ぎた。
自分の頭には女のやうな白い温室が殘つた
それは人の目に屆かない、觸れ無いところに
靜かに露骨に立つた孤獨な姿だ。
人の世を離れて安らかに生きてゐる美に包れた幸福の姿だ。[#地から1字上げ](十一月十八日)
三人の子供
三人の子供が
原ぱで泥いぢりをして居る。
穴を掘つてその周りに立つたりしやがんだりして居る。
淋しい大きな空の翼はから鳴りを發し
忽ち日を蔽ふやうに暗くなり
卒然として舞ひ下り
深淵はそこに開け、三人の子供を呑み込んで消え失せる、
刹那三人の子供は光りのやうに其處にこぼれて睦み合ひ
自分の過ぎて行くのを微笑して見て居る。
[#地から1字上げ](十一月二十四日)
默劇
子供と妻と原へ遊びに行く
大人に連れられ無い子供が二人原の隅に淋しさうにうろついて居る。
何か探すやうに、手もち無沙汰で、
わが子は元氣で原をとび廻り
元來し道の方へ行かうと大きな聲で「あゝ」と云つて指して示す、
二人の子供はびつくりして竝んで立止り
わが子の指さした方に同時に顏を向け
すぐ又顏をくるりとかへしてわが子に向けた。
自分と妻は可笑しくて笑つた。
やがて又三人の子供が來た。
三人とも同じい位の間をへだてゝ
淋しさうに地面を見乍ら何か探して來た。
自分達の側へ來ると
三人とも顏を上げて一人で飛び廻るわが子を見乍ら立止つた。
然うして默つて同じ位な笑ひを浮べ乍ら
又ソロ/\申し合はしたやうに歩き出し
自分達のうしろへ原の隅に竝んで音も無く消えて行つた。
眞夜中の宴會
あゝ眞夜中、ふと目ざめ、窓に立つて行つて
外を覗けば、壯麗無比の宴會は開かれて居る。
もう餘程前から開かれて居るらしい。
多くの人は皆んな妻も子も親も兄弟も友人も無數の知人も
打ち連れて早くから行つて居るらしい、
自分はこの招待の日を忘れて居た事を思ひ出して悔やしくなる。
もう今から行つても遲い氣がする。宴會は下火らしい。
いや今が絶頂かも知れ無い。自分は一人窓に佇んで見る。
木は一杯魚のひそんだ大きな藻のやうに
靜かに光を放つて溌剌として入り亂れ
一夜の中に凡ての美を焦燼し切るやうに
優しく強き姿をして整然と佇み
全世界から美の粹を集めた星は少し赤味を帶びて輝き競つて舞踏し
夜の更けたのを知らせるやうに
少し疲れた歡樂の宴の再び勢ひを新たにつけられるやうに
風も無いのに落葉の音は
一齊に起る拍手のやうに空中に入り亂れ觸れ合つて
無數の細かな音を發し
幾度も幾度も同じ事がくりかへされ
宴會は更に絶頂へ至りつくやうに
あり餘るところから新に酒肴が運び出されたやうに
一氣に何倍も光りが加へられ
燈の數は増され
夜のふくるまで壯麗無比の宴會はつゞく
自分はもう招ぎに遲れたのを悔やまない
自分はそれ
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