然しやがて白鳥の母は水の中へ躍り込んだ。
然うして涙を洗ふやうに、悲しみを紛らすやうに
その純白の胸も首も水の中へひたし、水煙をあげて悶えた。
然しそれはとり亂したやうには見えなかつた。
然うして晴々した日の中で悲しみを空に發散した。

その單純な悲しみは美くしく痛切で偉大な感じがした。
その滑かな純白の胸のふくらみのゆれ動くのは實に立派であつた。
まことにあんな美くしいものを見た事はない氣がした。
威嚴のある感じがした。
金網の周圍には多くの女や吾れ/\が立つて見てゐた。
自分達は均しく感動した。
自分はその悲しみを見るのが白鳥にすまない氣がした。
吾々の誤つてゐる事を卑しめられた
白鳥に知らしてやれないのを悲しく思つた。
自分はその悲しみを早く忘れてくれるやうに願つた。

  白犬よ

白犬よ、
御前がものを乞ひに來る時
自分の心は騷々しくなる。
御前のものをねだる聲、呼ぶ聲を聞いてゐると、
落着いてゐられ無くなる。心の内が生々して來る。
大事件でも起つたやうになる。
戸の外で御前の俺を呼ぶ聲は
不思議な生命を俺の心に燃え上らせる。
大波が胸に溢れて來るやうに感じる。
さつきから子供は默つて自分の顏を見てゐる。
自分が立つと同時に、申し合はしたやうに二人で玄關へ出て見る。
濡れしよびれて、
闇の中から御前は玄關へ入つて來て知り人に會つたやうに、
恥しいやうに、すま無いやうに、
身體の置き場に困るやうな恰好をして叫ぶ。
然うして御前は食べ物を少しもらふと默つて歸つてゆく。
不思議な白犬よ、御前の歸つたあとは嵐がすぎ去つたやうに靜かだ。
この寒い雨の降る夜更けに、
本當に何しに來たのだ。
何を思ひ出して來たのだ。
然うして禮も云ふのか云はないのか、
默つて行つてしまふ。
御前は何だ。
不思議な白犬よ。
[#地から1字上げ](以下十八篇、白樺所載)

  二人の癈人

自分は見た。
自分はその二人を忘られ無い。
警察署の留置場の一室の隅に竝んだ二人の窃盜犯を、
二人は共犯者ではなかつた。
一人は三十か四十位、一人は五十か六十位の小柄な老人、
二人とも顏色の惡い事は夜の人の特長を示して居た。
若い方は狼のやうに痩せてゐた。
鋭い此世のものを馬鹿にし切つた、野生な瞳を有つてゐた。
周圍の人には頓着ない自分の心持一つで
生きてゐる事があり/\見えた。
誰でもこんな人にはめつたに町では逢へ無い。
夜を選んで孤獨で傷ついた野犬のやうに彼は姿を見せはしない。
彼の姿が見られるのはこんな檻の中でなくてはならないのだ。
彼は恐ろしい孤獨な人間だ。癈人だ。
彼にも妻や子があるだらう。
が彼位妻や子を愛したものがあるだらうか。
自分は彼が、留置場の向ふの刑事室のある邊りで(朝であつた)
七つか八つ位の女の子が笑ふ聲を聞いて、
彼の側にかしこまつた老人に、
「子供が來てゐるね」と云つたのを忘られ無い。
俺は「子供がこの人にはあるのか」と思つた。
今度行けばどうせ十二三年は食ふのだから罪は俺が引受ける。
誰か持つてゐるならマツチを出してくれと自分で然う云つて、
涙を呑み込んで身をふるはした此の前科者に。
老人は不攝生の爲めに眼の下の腫れ上つた白い眼をむき出して
「うん」と生返事をして、
寒さうに心配でまつ青になつて溜息をついた。
あゝ哀れな老人、孤獨で、し切りに指ばかり折り數へてゐた老人
(多分刑期がきまるのを待つ爲に。
おつかない法廷に呼び出されるのを待つ爲めに)
未だ牢に馴れないと見える、何か心を苦るしめると見える、
一心に考へ事をしてゐる老人、
夜も晝も默つて、外聞も見榮も忘れて、
露骨にあり餘る心配を人に見せて、
然うして朝、人々にくるりと脊を向けて、
二三寸離れた壁の方を向いて、きちやんとかしこまつて、
一心に何か禮拜した老人、
俺はそこに老人の一家のものを浮べた、
老人の小さな家の神棚を思ひ出した。
(毎朝さうして拜んでるだらう。)
自分は又そこにいかめしい法廷の光景を見た、
然うしてこの老人の爲めに重い罪が少しぽつちでも
宥される事を願つた。
この小柄の老人が何を欲してゐる?
それは少しの同情だ。罪の輕くされる事だ、
それよりこの老人の重い重い心のつかへに
なつてゐるものがあるものか、
それより屈托する慾望があるものか、
法官よ、彼に同情してやれ、
このずる相な頬骨の出た前科者の老人に、
自分に托け切つたこの小さな老人に、
ほんの輕い罰を與へて喜ばしてやつてくれ、
彼を踏みつぶす事位わけのない事は無いのだ。
おどかすな、おびやかすな、戰々としてゐるこの生ひ先き短い老人に
二三十分過ぎてから又子供の聲がした。
若い犯人は、
「おやまだゐるね」と又老人に話しかけた。
然うして同室の人々の顏を初めて見廻した。
俺は凡てがあり/\わかつたやうに思つた。
子供は誰かこゝに囚はれた人を迎へに來た。
その妻がつれて來たのだ。
俺はこの若い犯人の心の裏を云ふのは廢めよう。
餘りにわかり過ぎてゐる。
その前の晩だ。
往來で三十錢許り入つてゐた蟇口を拾つて、
つかひもしない内に捕つて、
四日間とらはれてゐた勞働者が放還された、
彼は妻が子供をつれて遠い町から朝早く
「貰らひ」に來た時の事を俺に話した。
放還される前の晩の隱し抑へた嬉しさから、
俺に話した。
子供にこんな所を見られたのが恥しいと云つてゐた。
そしてこゝを出たら妻や子をうんと喜ばしてやると、
腹の底から平和と團欒に餓ゑた若い勞働者は、
目の前に見える放免を喜んで、
驚く程の親切を本當の良心から俺に示してくれた。
然うして「十日や十五日は何でも無い、あの人は君十三年だよ」
と云つて笑つた。
あゝ俺は忘られ無い、
あの十三年行つた男が、
雨、風にさらされ、あらゆるものに虐げられ、
戰つて來た兩手の筋を力を罩めてさすり乍ら、
その蒼褪めた兩手を眺めつゝ誰に云ふとも無く、
「もうすつかり駄目になつてしまつた」と云つて、
自分の體をかこつたのを、
然うして牢に馴れた人のやうに體を運動させるのを。
自分は思つた。此人も子供の時があつたのだ。
白い手を見た時に恐らく彼も思つたらう。
あの人にも御母さんがあつたのだ。
さうして自分の子供のやうに、
矢張り御母さんを慕ひ御母さんも彼をどんなに可愛がり、
神樣以外のものには指もさゝせず育てられた事があるのだ。
この顏色の惡い夜の人、人々に嫌はれ、忌まれる癈れた人が、
然うだ。十三年も行けば、(十三年と云へば長い月日だ)
牢で病死をしないとも限ら無いこの哀れな罪人が、
あゝ神よ、彼を哀れみ給へ。彼を救ひ給へ。
凡ての哀れ極る罪人を救ひ給へ。
自分は彼を見た。どこに責む可きところがある。
その子供のやうな好奇心の強い、眼を輝して、
膝頭で立つて腰を浮かせて牢の外で何か起ると、
盜みに入る時のやうに眼を据ゑ切つて、覗き窺ひ、
耳をすませるこの野生の狼、
自分は忘られ無い、
かの年寄りと若い犯人が、
同じ一つの法則によつて動いてゐたのを、
夜寢る刻限が來ると、
二人は今日か昨日入つた許りの同室の者達に構はずに、
さつさと投げこまれた寢床をのべて
二人竝んでぐつすりいそいで眠つたのを
さうだ、
一日でも早く消えてゆく事はどんな喜びだらう
一日も終つた、もう考へる事は無い
明日は何か變化があるだらう
自分には見えるやうだ。
あの小柄の老人が
若い犯人の側に目だたない位つゝましく默つてくつついて
捨てられるのでも恐れるやうに
申し合はしたやうに、
寢床へいそいで飛び込む姿が
さうしてあの若い犯人はこゝではたしかに老人の保護者だ。
彼は老人より罪が重いから。
老人は彼を自分の子供のやうに慕ふのだ。
身も心も彼の側を離れられ無いのだ。
一人となるのはこゝでは恐いのだ。
あゝ何と云ふ美だ。
癈れた者にこの美があるのだ。
觸はつたらたまら無い美がもうもろく露骨になつてゐるのだ。
自分はもう書けない。
書かなくてもいゝ、[#地から1字上げ](十一月二日)

  雨

雨が降る、安らかに恙なく
天から地に屆く
人通りはまるで無い。自分一人だ。
店々は燈をかゝげ、人が坐り、
永遠に然うして居るものゝやうに見える。
本當にどこに恐れや暗さがある。
雨は往來にさした燈の中に美くしい姿を見せて
濛々とした薄闇の世界へ音も無く消えて行く。安らかだ。
ゴト/\と荷馬車が一臺向ふ側を通る。
實に靜かだ。音も無く雨は降る。

  小景

今日は馬鹿に寒い、雪か霙でも降り出し相だ。
出しぬけに冬が來たのだ。
日が出かけようとして出られ無いで居る。
出かけ相にしては隱れてしまふ。
人がいそぎ足に澤山通る。女と子供が多い。
皆んな饒舌つて行く、寒いのに皆んな驚いて居る。
日が出るのを一樣に期待して居る。
母親の脊中で子供が
初めて此冬に出會つた連中だらう
未だ赤ん坊臭い泣き聲がすつかりとれない
わけのわからない聲でむづかつて行く
時々男の聲も交る。
寒いので皆んな急ぎ足だ。かけ足だ。
用を足しに家を一寸明けて出た人々と云ふ氣がする。
家の中から聞いて居ると面白い。
一しきり往來は子供と女達の聲で賑はつて。
軈てまるでちがつてしまふ。
誰も通ら無くなる。
變な氣がする。そこは通り過ぎてしまつたやうに。
人類生存の一くさりだ。
どん/\變つて行く。
[#地から1字上げ](十一月七日)

  立ち話し

急いで家へ歸つて來る途中で
もう暗かつた。妻に出會つた。
二人は用を話し合つた。
妻は自分に子供を注意した
成程、見れば妻の顏のうしろに
ねんねこの蔭にしつかりと窮屈な位包れて、
枝になつた果實のやうにかつちり引きしまつた小さな顏が、
默つて笑つて居た。
例へやうもない可愛ゆいおとなしい顏よ
すつかりいゝ氣持になつてゐる滿足顏だ。
自分が笑へば、靜かに笑ふ、その眼の光り、
りかう相な默つた表情。いゝところで出會つた。
さて又自分は妻と話のつゞきをする。
もう子供の事は忘れて、
話が絶えて又思ひ出して見れば
靜かに笑つて二人の話を聞いてゐる
母の顏のうしろの一寸氣がつかない小さな顏よ、
葉蔭の花か果物のやうな
滿足しきつたぜい澤な顏、
可愛ゆい、小さな鋭い顏、
ではさよなら、行つて御いで
さよなら、笑つて居ますよ。
[#地から1字上げ](十一月三日)

  或る朝の印象

あゝ朝
どの家々もがら明きのやうに靜かだ
皆んな何處かへ行つて仕舞つたのでは無いか
亂雜に家々ばかりが蜘蛛の居ない巣のやうに
澤山空に向つて淋しく竝んで居る。
餘りに明るい光りが暗さを生むやうに
淋しいうつろな家々の近所で
勇しい雀ばかりが啼いてゐる。
ゆつくりと、この朝の靜かさに驚いたやうにつゝましく啼いてゐる。
だん/\啼く音が殖えてゆく。
勢ひも増して行く、羨しくなる程恐れを知ら無いで雀は啼いてゐる
ついと一羽が、
高い目のまはるやうな高い電線に飛んで來て
とまり、輕く調子をとつて姿勢を正した。
大きな淋しい空に對して鋭い對照をなして、憎いほど大膽な雀よ。
恐れを知らない雀よ。
同時にあとからあとから、屋根を離れて幾羽も飛んで來た。
然うして枝渡りして彼はどこかへ行く。
どこへ行くのか。
少しぼつちの群れで。

  白犬よ

白犬よ
立たなくてもいゝ。其儘で居よ
俺を見て逃げなくてもいゝ
そこは人の來ない空地だ。
御前の世界だ。
久しぶりの御天氣に
汝ものう/\してるな
腹もいゝと見えるね、
呑氣な白犬よ
安心して遊べ
人氣の無い空地の日和に
そこはお前の世界だ
御前がさがしたうまい場所だ。
そこなら誰も來はしない
俺はそこを占領しようとは思は無い
歸つて來い、白犬よ
そんなに殘り惜し相に去らなくてもいゝ
俺はいたづらはしない、大丈夫だ。だまし打ちはしない。
歸つて來い、
御前は逃げるね、口笛を吹いても
よし、よし、俺は外へ行く
外へ行つていゝ所を御前のやうに目つける、
白犬よ
俺に構はず戻つて來い。

  臆病な魂

俺の飼犬が捕つたと知らせに來てくれたので
飛んで行つて犬殺しの箱車を覗いた時
毛臭い、暗い匂ひがプンとした。

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