は恐く、
然し親切相に露骨になり此世以上のものを浮き立たせる。
日が暮れて道を行く旅人は
せつかちに歩いても歩いても、思ふ所に達せず
廣大な夜の潮に押し流され、
道を誤つて居るかと不審を起して立止れば、
天體はぐる/\廻り、
眠たい眼をこすれば稻妻が發し狐に廻されてゐるやうに恐くなり
ます/\せつかちに急いで行けば、幾度も石に躓き
餘りに夜は大きく、人間の小さな無力をつくづく感じる。
然し出しぬけに人は目的地に達すと
鱗がとれたやうに眼がはつきりして
見知らぬ町には澤山間の拔けた光りがともつてその中を人がゾロ/\通つて行く。
餘りの明るさに自分の身の暗さを感じ
苦るしさが胸一杯に滿ちてくる時
出しぬけに自分の足下に氣がつけば
あゝ一生の思ひ出か
遠い/\幼な時
母に抱れて暖に
浮世の波風を外にちんまり行儀に暖つて居た
懷しい懷しい幸福が思ひ出され
疲れ切つて暗い宿屋に辿りつけば
他人の家も吾が家へ歸つたかのやうに生々感じ
煤けたランプの下に暫らく會はない、
國に殘した妻や親子の顏がはつきり現れる。
あゝ夜を支配する廣大なる者よ
御身の胸に遍く人々を掻き抱き給へ。
[#地から1字上げ](一一、一二)
野球
王子電氣會社の前の草原で
メリヤスシヤツの工場の若い職工達が
ノツクをして居る。
晝の休みの鐘が鳴るまで
自由に嬉々として
めい/\もち場所に一人々々ちらばり
原の隅から一人が打ち上る球を走つて行つてうまく受取る。
十五人餘りのそれ等の職工は
一人々々に美くしい特色がある
脂色に染つたヅツクのズボンに青いジヤケツの蜻蛉のやうなのもあれば
鉛色の職工服そのまゝのもある。
彼等の衣服は汚れて居るが變に美くしい
泥がついても美くしさを失はない動物のやうに
左ぎつちよの少年は青白い病身さうな痩せた弱々しい顏だが、
一番球をうけ取る事も投げる事も上手で敏捷だ。その上一番快活だ。
病氣に氣がついてゐるのかゐないのか
自覺した上でそれを忘れて餘生を樂しんでゐるのか
若白髮の青年はその顏を見ると、
何故かその人の父を思ひ出す
親父讓りの肩が頑丈すぎてはふり方が拙い。
教へられてもうまくやれない
受取る事は上手だ。
皆んな上手だ、どこで習つたのかうまい、
一人々々に病的な美くしいなつこ相な特色をもつて居る。
病氣上りのやうに美くしいこれ等の少年や青年は
息づまる工場から出て來て
青空の輝く下にちらばり
心から讃め合つたりうまく冷やかしたり、
一つの球で遊んでゐる。
雜り氣の無い快活なわざとらしくなく飛び出し出た聲は
清い空氣の中にそのまゝ無難に消えて行き
その姿はまるで星のやうに美くしい
星も側へ行つて見たら
あんなに青白く、汚ないにちがひない
一人々々の汚ない服や病的の體のかげから
快活な愛が花やいでうつかり現はれる美くしさ、なつこさ、
鐘が鳴ると彼等は急に緊張して
美くしい笑ひや喜びや好奇心に滿ちた快活さを一人々々、
疊んでどこかへ隱したやうに
一齊に默つて歸つて行く。
幸福
幸福は
鳥のやうに飛ぶ。
自分の内から羽を生やして飛んで居る。
それをとらへよ。
空中にそれをとらへよ。
暖にそれをとらへよ。
手の内でも啼くやうに。
幸福はとらへるのが難しい
とらへても手の中で暖みを失ひ
だんだん啼かなくなつて死んでしまふ。
幸福は追ふな、とらへようとするな
そのまゝにしておけ。
人間の冷たい手をそれに觸れるな。
人間の息をそれに當てるな、
清淨な空氣にそれを離してやれ。
それを追ふな。
遠く消えて行つても心配するな、
幸福のみは
神の手にあれ、
生き暖き神の手にあれ
よみがへし給ふは神の息のみ
清淨な風と火の業にあれ。[#地から1字上げ](一〇、二四)
或る時
御寺のあとの空地に
旅廻りの曲馬がかゝつて
高い天幕を張つて旗や提灯を樹てた。
自分は小さい弟や妹にせがまれて見に行つた。
未だ始つてゐなかつた。
人々は草原に集り、高いところに並べてつるした
繪看板を見上げたり、前に並んだ馬を見たりしてゐた、
幕が開いてゐて中には舞臺としやじきが見えた。
絆纒を着た男や襷がけの女が、ランプをつるしたり、
舞臺を掃いたり、座布團を重ねて居た。
犬も澤山ゐた。小さな椅子の上に乘つて外を見て居た。
人がゾロ/\集つて來た。
繪看板のうしろの高い所、
ボツクスに樂隊が陣どつて悲しいふしで吹奏し出した。
御白粉をはげちよろに塗つた十か十二位の女の子が舞臺へ出て來て、
犬にからかつて居た。
札賣場に大きな男がのつかつて、
札をつみ上げて原の方から集つて來る人を見て居た。
妹や弟は遊び廻はつては天幕の前に來て中を見た。
馬を批評した。
見物人は殖えて來て、
札を賣り初めた。
日はくれかゝつて天幕の向ふの空に燃えてゐた大きな雲が崩れ初めた。
それを見乍らどうして地球は圓いか話し合つてゐた、
弟や妹は今晩曲馬へ來たがつた。
自分をせびつた、
自分は斷るのが可愛相な氣がした。
棧敷にはだんだん人が殖えた。
それ等の人を見ると自分は恥しい氣がした。
小供をつれて入つてゆくのが恥しい氣がした、
自分は赤い顏をした。
弟や妹をごまかして歸りかけた。
二人は自分の手に兩方からぶら下つた。
自分は淋しくなつた。涙ぐんだ。
自分はうしろに賑やかな然し悲しい樂隊を聞き、
札賣りのどなる聲を聞き乍ら
何かに襲はれるやうに坂を下つた。
門が見えると
弟も妹も自分の手を離れて一目散にかけて行つた。
自分は淋しく苦るしかつた。死んだ弟の事を思ひ出した。
自分もうしろから家をめがけて馳け出した。
[#地から1字上げ](一〇、一三夕)
創作家の喜び
見えて來る時の喜び、
それを知ら無い奴は創作家では無い
平常は生きてゐても、本當ではない
自分の内のものが生きる喜びだ。
自分の内の自然、或は人類が生きる喜びだ。
創作家は、その喜びの使ひだ。
初めて小供を
初めて小供を
草原で地の上に下ろして立たした時
小供は下許り向いて、
立つたり、しやがんだりして
一歩も動かず
笑つて笑つて笑ひぬいた、
恐さうに立つては嬉しくなり、そうつとしやがんで笑ひ
その可笑しかつた事
自分と小供は顏を見合はしては笑つた。
可笑しな奴と自分はあたりを見廻して笑ふと
小供はそつとしやがんで笑ひ
いつまでもいつまでも一つ所で
悠々と立つたりしやがんだり
小さな身をふるはして
喜んで居た。
道端で
道端にベニ色の衣服を着た赤ん坊を抱いた老婆が休んで居る。
母の胎内ですつかりのびた小供の頭の髮は
ところ/″\から長くのびて前へ垂れ
大きなつむりを下げて默々と地上を見詰めて動いて居る。
靜かにおとなしく、孤獨で
未だものを見る勢も無いが、彼はもう動き出しさうに見える。
よそ見してゐる老婆の手からすりぬけて行きさうに見える。
頭がだんだん垂れて行く、地上へ向つて。
その深い姿は日の目の見えぬ他界の蔭に育つたものを思はせる。
地の底を流れる河の渦まく淵から現はれたやうに暗黒で異樣だ。
そこに此世ならぬ顏がもう一つ現はれて居る。
地球が青空の中に包まれて浮んで居るやうに
見えぬ姿に包まれて半分姿を此世に現はして居る。
默々として孤獨で、つくられたまゝである。
誰もそれを見るものは無い
その異樣な姿を見ると、自ら涙が湧いて來る
その孤獨が自分の胸に觸れて來る。
[#地から1字上げ](一〇、三)
自分は見た
自分は見た。
朝の美くしい巣鴨通りの雜沓の中で
都會から田舍へ歸る肥車が
三四臺續いて靜かに音も無く列り過ぎるのを
同じ姿勢、同じ歩調、同じ間隔をもつて
同じ方向に同じ目的に急ぐのを
自分がぴつたり立止つてその過ぎ行くのを見た時
同じ姿勢で、ぴつたりとまつたやうに見えた。
小さく、小さく、町の隅、此世の隅に形づけられて。
自分はそれから眼を離した時、
自分の側を過ぎ行く人、
左へ右へ急ぐ人が皆んな
同じ方則に支配されて居るのを感じた。
彼等は美くしく整然と一糸亂れ無い他界の者のやうに見えた。
人形のやうに見えた。
自分は見た
夜の更けた電車の中に
偶然乘り合はした人々が
おとなしく整然と相向つて並んで居た。
窓の外は眞暗で
電車の中は火の燃えるかと思ふ迄明るかつた。
自分は一つの目的、一つの正しい法則が
此世を支配して居るやうに思ふ
人は皆んな美くしく人形のやうに
他界の力で支配されて居るのだ。
狂ひは無いのだ。つくられたまゝの氣がする。
一つの目的、一つの正しい法則があるのだと思ふ。
自分はその力で働くのだ。
葉書
今日はいゝ日だ。
朝、床の中でうと/\して居ると
郵便配達が
どつしりと重みの有る一束の葉書と手紙を投げ込んで行く
音に目を覺された。
自分は其處に五六枚のハガキが重さなり合つてちらばり、
一通の手紙とを見た。
自分は檻の中の獅子が投げ込まれた肉片に飛び付くやうに
勢ひよく手を伸してそれを掻き集めて胸の下に引寄せた。
久しぶりでKから自筆のハガキがあつた。
國へ歸つたNの二度目のハガキがあつた。
それからKからの編輯についてのハガキと、
夫から來月號に小説を出す通知を兼ねた返事があつた。
それからNのハガキと今月の雜誌に出た三つの小説があつた。
それが手紙に見えたのだ。
自分は一枚々々餓ゑるやうに讀み噛みしめた。
すつかり血が殖えたやうに。
自分は元氣づいて手紙を懷にねぢこんで立上つた。
窓からは好きな青空が誘ふやうに光つてゐた。
小供をつれて原つぱへ行かうと思つた。
そこでNの小説を讀まうと思つた。
顏を洗ひ乍らも幾度も幾度も自分はハガキを懷から出して眺めた。
妻や小供にも少し關つてやらうと思ひ乍ら
ハガキに氣をとられつゝ
自分はNの『哀れな少女』の初めの一頁を息を殺して讀んだ。
然うしてあとを樂しみにして
幾度も自分を待つて呼んでゐる食事にいそいだ。
ハガキと原稿は自分の懷と袂に本能的にしまはれた。
自分は元氣に
妻や子供に、原へ連れて行つてやると云つた。[#地から1字上げ](一〇、一四)
飯
君は知つてゐるか
全力で働いて頭の疲れたあとで飯を食ふ喜びを
赤ん坊が乳を呑む時、涙ぐむやうに
冷たい飯を頬張ると
餘りのうまさに自ら笑ひが頬を崩し
眼に涙が浮ぶのを知つてゐるか
うまいものを食ふ喜びを知つてゐるか、
全身で働いたあとで飯を食ふ喜び
自分は心から感謝する。[#地から1字上げ](一〇、二五)
眠れぬ者の歌
夜もすがら眠る者は幸福だ。
夜と共に眠る者よ
その面白さうな健康な呼吸よ
沈默の聲よ
幾多の人が集ひ寄つて
さゞめき、喜ぶやうな賑やかさ
『おゝ汝は笑つて居る、何が可笑しいのか』
夜もすがら眠り得ぬ者は不幸だ
彼は病んで居る
他界の人のやうに
幸福に擽られて居る露骨な笑ひを聞き乍ら
涙の浮んだ眼を見開いて居る。
『止めよ、止めよ
其の病的な幸福を、露骨な笑ひを止めて呉れ』
不幸な人は呟けど
夜もすがら幸福は眠れる者を去らず
病める者の耳を離れず
氣がつけばます/\露骨に話し合ひ、囁き、笑ひ
誘ひ込む樣に夜は騷しく更けて行く。
[#地から1字上げ](一〇、九)
白鳥の悲しみ
美しく晴れた日、
動物園の雜鳥の大きな金網の中へ
園丁が忍び入り、
白鳥の大きな白い玉子を二つ奪つて戸口から出ようとする時
氣がついた白鳥の母は細長い首を延して朱色の嘴で
園丁の黒い靴をねらつてついて行つた。
卑しい園丁は玉子を洋服のポケツトに入れて
どん/\行つてしまつた。
白鳥の母は玉子の置いてあつた木の堂へ默つて引返へし
それから入口に出て來て立止つて悲しい聲で鳴いた。
二三羽の白鳥がそれの側へ首を延ばして近寄り
彼女をとりまいて慰めた。
白鳥の母は悲しく大きな聲で二つ三つ泣いた。
大粒な涙がこぼれる樣に
滑らかな純白な張り切つた圓い胸は
内部から一杯に搖れ動き、
血が溢れ出はしまいかと思はれる程
動悸を打つて悶えるのが外からあり/\見えた。
啼かなくなつてもその胸は痙攣を起して居た。
その悲しみは深くその失望は長くつゞいた。
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