居る。
工場か何かの濕つぽい汽笛が
ふくろのやうに一つ二つ呼び交し
機關車が蒸氣を吐き
風がザワ/\と空地で起り
然しすぐあと方もなく皆んな消えてしまふ。
矢張り靜かな春の夜だ。
時間はたつぷりあり餘つて居る。

自分はプシキンの「大尉の娘」を讀んで居る。
花やかでどこか氣味が惡い
豐富な興味と教訓に滿ちた
この變つた小説に先刻から夢中だ。
感嘆する
實に感嘆する
流石にプシキンだ。
簡潔な言葉の中に
無限の人情の世界を現出させ
少しもあせらずに單調に落着いて
然し不思議な波瀾を生んでゆく
數奇な運命を卷き起す筆の魔力には感嘆する
日本人の書いたものはこんなものに比べると實に貧しい、
色彩が薄い、
事件に都合のいゝところはあつても人情が豐かだ、リズムがある。
こんなものが書けたらば氣持がいゝだらうな
想像が刺撃されて心は苦るしくなる。

然し側から小供が咳をする
その方へ注意が集る
小供はピチヨ/\と舌を鳴らし鼻を鳴らす。
泣くかと思つて待つてゐるが眼は覺さない。
思はず「いけないね、咳をして」と云ふと
果して妻は今眼がさめたところ
同じ返事をして又眠り込む
自分は溜息をついて又本を讀
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