眼には恐れと苦しさが一杯涙とまじつて見える
濡れたまゝの髮で妻が臺所からやつて來る
見馴れない形相に赤ん坊は變な顏
枕の上に布をあてがつて濡れた毛のまゝ
妻は添寢をさせて遣る。
小供は安心して眠つてゆく
臺所ではやかんのふたが踊り出し
水と火が喧嘩を初める
俺は櫛めを又探す
然し櫛めは何處かにはさまつて出たくても、
出られないでもがいてゐるにちがひない、
その隙に小供の床からぬけ出した妻は
新しい櫛を買ひに闇にまぎれて走つてゆく
小供はもう眼はさめない。
夜が更けても妻は鏡臺の前に腰を据ゑて
遲くまで眠ら無い。
鏡臺の抽出が急がしく開けたてされる音と
リスリンを手につけてこする音が隣りの室から聞えて居る。
自分は見た
自分は見た。
とある場末の貧しき往來に平行した下駄屋の店で
夫は仕事場の木屑の中に坐り
妻は赤子を抱いて座敷に通るあがりかまちに腰をかけ
老いたる父は板の間に立ち
凡ての人は運動を停止し
同じ思ひに顏を曇らせ茫然として眼を見合して居るのを
その顏に現はれた深い痛苦、
中央にありて思案に咽ぶ如き痛ましき妻の顏
妻を頼りに思ふ如く片手に削りかけの下駄をもちて
その
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