やウが他音の下に来るものが甚だ多くなった。ところがかようなイ音は、その後変化なく、「礼」「敬」のごときも正しくレイ・ケイの音を室町末期までも保ったが、ウ音は、時を経ると共にその直前の音の影響を受けこれと合体して、一つの長音になるものが出来たのである。まず、(一)ウ音が、その前のオ段音の母音oと合体してo[#「o」の上に「−」]の音となり、その前の子音と共にオ段の長音となった。すなわちou→o[#「o」の上に「−」]、例えば、「曾」ソウ→ソー、「登」トウ→トー、「竜」リョウ→リョー。また(二)ウ音がその前のエ段音の母音eと合体してyo[#「o」の上に「−」]の音となり、その前の子音と共にオ段のヤ行長音または長拗音となった。すなわちeu→yo[#「o」の上に「−」]または−yo[#「o」の上に「−」]、例えば「用」ヨウ→ヨー、「笑」セウ→ショー、「妙」メウ→ミョー、「料」レウ→リョー。その結果として(一)に述べたショウ、ミョウ、リョウの類から出た拗長音と全く同音になった。以上二種の変化は大体鎌倉時代には完成し、室町時代には既に長音に化していたもののようである。(三)ウ音が直前のア段音の母音aに同化せられてoとなり、更にこれがaと合体してoの長音となったが、これは(一)(二)から出来たoの長音よりは開口の度が多く、これと明らかに区別された。この開音のoの長音をo[#「o」の上に「v」]で表わすとすれば、au→ao→o[#「o」の上に「v」]と変じたのである(開音のoは英語のallにおけるような音で、音声記号では〔※[#「※」は発音記号で、「c」を左右反転した形、165−7]〕で表わす)。例えば、「行」カウ→カォー、「様」ヤウ→ヤォー、「設け」マウケ→マォーケ、「明」ミヤウ→ミヤォー、「性」シヤウ→シヤォー。この種のものが一つの長音に帰してしまった時代はまだ明らかでないが、室町末期には完全に一つの音になっていた。そうして当時はこれを開音とし(一)(二)の種類のものを合音として、おのおの別の音として取扱ったのである(室町時代の末には多少両者の発音を混同するものがあったかも知れないが)。(四)ウ音が直前のイ段音の母音iと合体してウ段のヤ行長音または長拗音となった。すなわちiu→yu[#「u」の上に「−」]または−yu[#「u」の上に「−」]。例えば「中」チウ→チュー、「いう」イウ→ユー、「嬉しう」ウレシウ→ウレシュー。この変化はいつ起ったかわからないが、室町末には、既に変化していたのである。
 以上の(二)および(四)の音変化の結果、もと直音《ちょくおん》であったものが新たに拗音《ようおん》となり、拗音を有する語が多くなった。
 (十二) サ行音ザ行音は室町末期の標準的発音では、<sa><shi><su><she><so>、<za><ji><zu><je><zo>であって、現今の東京語と大体同じであるが「セ」「ゼ」の音だけが違っている。しかし、これは、近畿から九州まで日本西部の音であって、関東ではその当時も今日の東京語と同じく「セ」「ゼ」を<se><ze>と発音した。サ行ザ行の音は、室町以前における的確な音がまだわからないからして、どんな変遷を経て来たかは、言うことが出来ない。

 以上、第二期における国語の音韻の変遷の重《おも》なるものについて述べたが、これによれば国語の音韻は、奈良朝において八十七音を区別したが、平安朝においてはその中のかなり多くのものが他と同音に帰して二十三音を失い、六十四音になったが、一方、音便その他の音変化と漢語の国語化とによって、ン音や促音やパ行音や多くの拗音が加わり、また鎌倉室町時代における音変化の結果、多くの長音が出来た。「ち」「つ」「ぢ」「づ」の音は変化したけれども、まだ「ぢ」「づ」と「じ」「ず」とは混同するに至らず、oの長音になったものも、なお開合《かいごう》の別は保たれていたのである。
 以上は京都地方を中心とした中央語の変遷の重なものである。他の方言については不明であるが、室町末期における西洋人の簡略な記述によっても、当時の方言に種々の違った音がありまた違った音変化が行われたことがわかるのである。
 二 連音上の法則の変遷
 (一) 第一期においては語頭音として用いられなかったラ行音および濁音は、多くの漢語の国語化または音変化の結果、語頭にも用いられるようになった。
 ハ行音はこの期を通じてその子音はFであったが、そのうち語頭以外のものはワ行音と同音に帰したため、語頭にのみ用いられることとなった。
 母音一つで成立つ音の中、語頭以外に用いられないものはアだけとなった。
 パ行音は語頭には用いられない(パット、ポッポト、ポンポンのような擬声語は別である)。ただし、室町末期に国語に入った西洋語(主として吉利支丹《キリシタン》宗門の名目)にはパ行を語頭にも用いたらしい。
 m音が語頭に立つものが出来た(「馬《ウマ》」「梅《ウメ》」など)。このm音はンと同種のものであるが、ン音はこの場合以外には語頭に立つことはない。
 (二)語尾音にはン音や入声《にっしょう》のt音も用いられることとなった。「万《マン》」「鈴《リン》」「筆」Fit「鉄」tetなど。
 (三)語の複合の際に起る連濁および転韻は行われたが、従来例のある語にのみ限られたようである。 また語と語との間の母音の脱落による音の合体は、平安朝にも助詞と動詞「あり」との間に起って、「ぞあり」から「ざり」、「こそあれ」から「こされ」、「もあり」から「まり」などの形を生じ、更に後には、「にこそあるなれ」「にこそあんめれ」から「ごさんなれ」「ごさんめれ」などを生じたが、第一期のように自由には行われなかった。
 或る語が「ん」で終る語の次に来て複合する時、その語の頭音が、
[#ここから、行頭二字下げで二行目以降三字下げ]
ア行音ワ行音であるものはナ行音となる(「恩愛《オンアイ》」オンナイ、「難有《ナンウ》」ナンヌ、「仁和《ニンワ》」ニンナ、「輪廻《リンヱ》」リンネ、「因縁《インエン》」インネン、「顔淵《ガンエン》」ガンネン。ただし「ん」がm音であったものはマ行音となる。「三位《サンヰ》」サンミ。
ヤ行音であるものはナ行拗音となる。「権輿《ケンヨ》」ケンニョ、「山野《サンヤ》」サンニャ、「専要《センエウ》」センニョー。
ハ行音であるものはパ行音となる。「門派《モンハ》」モンパ、「返報《ヘンハウ》」ヘンパウ。ただしかような場合に連濁によってバ行音になるものもある。「三遍」サンベン、「三杯」サンバイ。
[#行頭二字下げで二行目以降三字下げ、ここまで]
 漢語において、上の語の終が入声である時は、
[#ここから、行頭二字下げで二行目以降三字下げ]
入声の語尾キ・ク(もとk)はカ行音の前では促音となる。「悪口《アクコウ》」akko[#「o」の上に「−」]「敵国《テキコク》」tekkoku
入声の語尾フ(もとp)はカ行サ行タ行ハ行音の前では促音となる。そのハ行音は同時にパ行音となる。「法体《ホフタイ》」はfottai「合《ガフ》す」gassu「立夏《リフカ》」rikka「十方《ジフハフ》」jippo[#「o」の上に「v」]「法被《ハフヒ》」fappi
[#行頭二字下げで二行目以降三字下げ、ここまで]
[#一行目二字下げ、次の行から三字下げ]
入声の語尾tは、
ア行ヤ行ワ行音の前では促音となり次の音はタ行音に変ずる。「闕腋」ket−eki→ketteki「発意」fot−i→fotti「八音」fat−in→fattin
カ行サ行タ行音の前では促音となる。「別体」bettai「出世」shut−she→shusshe「悉皆」shit−kai→shikkai
ハ行音の前では促音となり同時にハ行音はパ行音となる。「実否《ジツフ》」jit−fu→jippu
[#字下げここまで]
 以上は漢語の、支那における発音に基づいたものであって、勿論多少日本化しているのであろうが、多分平安朝以来用い来《きた》ったものであろう。中に、ンあるいは入声tの次のア行ヤ行ワ行音がナ行音(またはマ行音)あるいはタ行音に変ずるのは、上のn(またはm)あるいはt音が長くなってそれが次の音と合体したためであって、かような音転化を連声《れんじょう》という。かような現象は、漢語にのみ見られたのであるが、後には、助詞「は」および「を」がン音または入声のtで終る語に接する場合にも起ることとなって、その場合には「は」「を」は「ナ」「ノ」「タ」「ト」と発音することが一般に行われたようである。(「門は」「門を」は「モンナ」「モンノ」となり、「実は」「実を」は「ジッタ」「ジット」となった)

     四 第三期の音韻

 第三期は江戸初期から今日に至る三百三四十年間である。その下限なる現代語の音韻は現に我々が用いているもので、直接にこれを観察して知ることが出来る。過去のものは、仮名で書かれた文献が主要なる資料であるが、そのほかに朝鮮人が諺文《オンモン》で写したものもあり、西洋人の日本語学書や日本人の西洋語学書などには羅馬《ローマ》字で日本語を写したものがある。また、仮名遣《かなづかい》や音曲《おんぎょく》関係書や、韻学書などにも有力な資料がある。
 第二期の下限である室町末期の音韻を現代語の音韻と比較して、第三期の中にいかなる変遷があったかを知ることが出来るわけであるが、現代の標準語は東京語式のものであるに対して、第一期第二期を通じて変遷の跡をたどり得べきものは大和《やまと》あるいは京都の言語を中心とした中央語であって、その後身たる現代の言語は、東京語ではなく京都語ないし近畿の方言であるから、これと比較して変遷を考えなければならない。
 一 第三期における音韻の変遷
 (一) 「ぢ」「づ」は室町末期までは<dji><dzu>の音であり、「じ」「ず」は<ji><zu>の音であって両者の間に区別があった。もっとも、室町時代でも、京都では、この両種の音が近くなってこれを混同するものもあったのであるが、これを区別するのが標準的発音であるとせられたのである(日本西部の方言では区別していた)。しかるに江戸初期においてはこれを全く混同するにいたった。それは「ぢ」「づ」の最初のdが弱くなって遂に「じ」「ず」と同音に帰したのである(それ故、江戸初期から「ぢ」「づ」「じ」「ず」の仮名遣が説かれている)。ただし、右の諸音の区別は今日でも九州土佐の諸方言には残っている。
 (二) ア段音とウ音とが合体して出来たoの長音は開音o[#「o」の上に「v」]であり、エ段音またはオ段音とウ音との合体して出来たoの長音は合音o[#「o」の上に「−」]であって、その間に区別があったことは既に述べた通りである。室町末期までは大体その区別が保たれていたが、既に室町時代から両者を混同した例も多少あって、その音が近似していたことを思わせるが、江戸時代に入ると早くもこの両者の別がなくなって、同音に帰したのである。開音のo[#「o」の上に「v」]が開口の度を減じてo[#「o」の上に「−」]と同音になったのである(かようにして、江戸初期から、開合の仮名遣が問題となるにいたった)。この両種の音は、現代の新潟県の或る地方の方言には残っている。
 (三) ハ行音は、第二期の末までは、ファフィフゥフェフォのようにFではじまる音であったが、江戸時代に入って次第に変化を生じ、唇の合せ方が段々と弱くなり、遂には全く唇を動かさずして、これと類似した喉音hをもってこれに代えるようになった。京都方言では享保・宝暦頃には大体h音になっていたようであるが、元禄またはそれ以前に既にh音であったのではないかと思われるふしもある。しかし、第二期におけるごときハ行音は、遠僻の地の方言には今日でもまだ存している。
 (四) 「敬《けい》」「帝《てい》」「命《めい》」のようにエ段音の次にイ音が来たものは、文字通りケイテイメイと発音していたのであるが、江戸後半の京都方言では、エ段の母音eとiとが合体して
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