eの長音e[#「e」の上に「−」]となり、エ段長音が発生した。
 (五) クヮ(kwa)グヮ(gwa)は、カ・ガと混同する傾向が古くからあり、江戸初期の京都でも下層階級のものはカ・ガと発音したものがあったが、しかし標準的の音としては永く保たれた。しかるに江戸末期になっては、京都でも一般にカ・ガの音に変じた。これはw音を発する時の唇の運動がなくなったからである。クヮ・グヮの音は今日でも方言には残っているものがある。
 (六) ガ行音は、室町時代においては、多分、どんな位置においてもすべてgではじまる音であったろうが、今日の京都語(および東京語)においては、語頭以外には鼻音ngで初まる音すなわちカ°キ°ク°ケ°コ°[#すべて「カ」「キ」「ク」「ケ」「コ」の半濁音]の音になっている。室町時代においては、ガ行音が語頭以外の位置にある時は、今日の土佐方言におけるごとく、その前の母音を鼻音化したのであるから、その鼻母音の影響を受けてg音がng音になったものであろう。かような音変化はいつ頃行われたか明らかでないが、現代の諸方言において、ガ行音がかように変化したものと、もとの形を残しているものとがあって、その方言の分布が、クヮ音とそれから変化したカ音との分布と一致する所が多いのと、新旧両形の分布がかなり錯乱しているのとによって見れば、この音変化は比較的新しいものであろうと思われる。
 (七) エ音オ音は、室町末期には<ye><wo>の音であったろうと推定したが、京都語では今日では<e><o>となっている。これは江戸時代において変化したのであろうが、その年代はまだわからない(エ音は九州・東北等の方言では明治以後もyeの音として残っている)。
 (八) 「セ」「ゼ」は室町時代には<she><je>の音であった。これが現代の京都語では、セ・ゼになっている。この変化もいつ頃起ったかわからないが、あるいは江戸時代後半でなかろうかと思う。(方言には、今なおshe音を保っているものがある。関東方言では室町時代から<se><ze>であって、今日の東京語もそうである。)
 (九) 入声《にっしょう》のtもすべてツ(tsu)の音になった(「仏」「鉄」「説」など)。この変化の年代もまだ明らかでない。

 以上述べた所によれば、国語の音韻は、江戸時代において、ヂとジ、ヅとズ、オ段長音の開音と合音が、それぞれその区別を失い、クヮ・グヮはカ・ガとなり、入声のtはツ音となって、その数を減じ、ハ行音、およびエ・オ・セの諸音は変化したが、なお、それぞれ一音としての位置を保ち、イはエ段音と合体してエの長音を生じ、語中語尾のガ行音は、語頭のものとわかれて、新たに鼻音のガ行音を生じた。かようにして全体としては音韻はその数をましたのである。そうして、江戸末期以来西洋諸国の言語に接して、その語を国語の中に用いるにいたったが、音韻としては、「チェ」「ツェ」「フィ」「ti」「di」などが、時として用いられる傾向が見える。
 なお、以上の音韻の変遷は、京都語を中心として述べたのであるが、他の方言では、その変遷の時代を異にしたものがあるばかりでなく、その変化の種類を異にして、例えばア列音が次に来るイ音と合体して、種々の開音のエ(普通のエよりも多く口を開いて発するエ類似の音)の長音になり、またイ音がエ音と同音になり、スとシが共に一つの新しい音になるというような類が少なくない。
 殊に、関東においてはオ段長音の開合の別の失われ、またクヮ・グヮのカ・ガに変じた年代が京都語よりも早かったことは証があり、江戸においては、享保の頃に、明らかに鼻音のガ行音があり、また、ヒ音がシ音に近かったのである。
 ニ 連音上の法則の変遷
 (一) ハ行音が変化して、現今のような音(hではじまる音)になった後も、語頭にのみ用いられることはかわらない(ただし、複合語などの場合には多少の例外がある)。
 パ行音が語頭にも用いられるようになった。第二期においては本来の国語では擬声語のほかはパ行音が語頭に来ることはなかったが、しかし、西洋と交通の開けた結果、西洋語が国語中に用いられたため、多少パ行音ではじまる語が出来たが、この期においてことに明治以後、多くの西洋語を国語中に用いるようになって、パ行音を語頭に用いることが多くなったのである。
 ガ行音が語頭以外において鼻音のガ行音に変化したため、ガ行音は語頭にしか来ないことになった。
 (二) 入声の音がツ音に変じた結果、tが語尾に来ることはなくなった。
 (三) ンの場合の連声《れんじょう》は追々行われなくなって、ただ、「親王」「因縁」「輪廻」のようなきまった語のみに名残をとどめるに過ぎない。しかし、これは江戸時代前半は相当に行われたので、ことに助詞「を」の場合には享保頃までもノと発音したようである。
 入声t(後にはツ)の場合の連声は、この期には早くから一般的には行われなくなっていたらしい。ただし少数の特別の語の読み方として今までも痕跡を存している(「新発意《シンボチ》」「闕腋《ケッテキ》」など)。
 漢語におけるンおよび入声に続く音の転化の法則は、この期において入声tがツと変じた後でも、第二期と同様のきまりが行われて今日に及んでいる。

     五 国語音韻変化の概観

 以上、日本の中央の言語を中心として、今日に至るまで千二、三百年の間に国語音韻の上に起った変遷の重《おも》なるものについて略述したのであるが、これらの変遷を通じて見られる重なる傾向について見れば、
 (一) 奈良朝の音韻を今日のと比較して見るに、変化した所も相当に多いが、しかし今日まで大体変化しないと見られる音もかなり多いのであって、概していえば、その間の変化はさほど甚しくはない。
 (二) 従来、古代においては多くの音韻があり、後にいたってその数を減じたという風に考えられていたが、それは「い」「ろ」「は」等の一つ一つの仮名であらわされる音韻だけのことであって、新たに国語の音として加わりまたは後に変化して生じた拗音や長音のような、二つまたは三つの仮名で表わされる音をも考慮に入れると、音韻の総数は、大体において後代の方が多くなったといわなければならない。
 (三) 音韻変化の真の原因を明らかにすることは困難であるが、我が国語音韻の変遷には、母音の連音上の性質に由来するものが多いように思われる。我が国では、古くから母音一つで成立つ音は語頭には立つが語中または語尾には立たないのを原則とする。これは、連続した音の中で、母音と母音とが直接に接することを嫌ったのである。それ故、古くは複合語においてのみならず、連語においてさえ、母音の直前に他の母音が来る場合には、その一方を省いてしまう傾向があったのである。その後国語の音変化によって一語中の二つの母音が続くものが出来、または母音が二つ続いた外国語(漢語)が国語中に用いられるようになると、遂にはその二つの母音が合体して一つの長音になったなども、同じ傾向のあらわれである。我が国で拗音になった漢字音は、支那では多くは母音が続いたもの(例えば<kia><kua><mia><io>)であるが、これが我が国に入って遂に拗音(<kya><kwa><mya><ryo>など)になったのも、やはり同種の変化と見ることが出来ようと思う。そうして今日のように、どんな母音でも自由に語中語尾に来ることが出来るようになったのは第三期江戸時代以後らしい。かように見来たれば、右のような母音の連音上の性質は、かなり根強かったもので、それがために、従来なかったような多くの新しい音が出来たのである。
 (四) 唇音退化の傾向は国語音韻変遷上の著しい現象である。ハ行音の変遷において見られるpからFへ、Fからhへの変化は、唇の合せ方が次第に弱く少なくなって遂に全くなくなったのであり、語中語尾のハ行音がワ行音と同音となったのは唇の合せ方が少なくなったのであり、ヰヱ音がイエ音になり、また近世に、クヮグヮ音がカガ音になったのも、「お」「を」が多分woからoになったろうと思われるのも、みな唇の運動が減退してなくなったに基づく。かように非常に古い時代から近世までも、同じ方向の音変化が行われたのである。
 (五) 外国語の国語への輸入が音韻に及ぼした影響としては、漢語の国語化によって、拗音や促音やパ行音や入声のtやン音のような、当時の国語には絶無ではなかったにしても、正常の音としては認められなかった音が加わり、またラ行音や濁音が語頭に立つようになった。また西洋語を輸入したために、パ行音が語頭にも、その他の位置にも自由に用いられるようになった。
 音便と漢語との関係は、容易に断定を下し難いが、多少とも漢語の音の影響を受けたことはあろうと思う。
 (六) 従来の我が国の学者は日本の古代の音韻を単純なものと考えるものが多く、五十音を神代以来のものであると説いた者さえある。しかるに我々が、その時の音韻組織を大体推定し得る最古の時代である奈良朝においては、八十七または八十八の音を区別したのであって、その中から濁音を除いても、なお六十ないし六十一の音があったのである。それらの音の内部構造は、まだ明らかでないものもあるが、これらの音を構成している母音は、五十音におけるがごとく五種だけでなく、もっと多かったか、さもなければ、各音は一つの母音かまたは一つの子音と一つの母音で成立つものばかりでなく、なお、少なくとも二つの子音と一つの母音または一つの子音と二つの母音から成立つものがあったと考えるほかないのであって、音を構成する単音の種類または音の構造が、これまで考えられていたよりも、もっと多様複雑になるのである。これらの音が平安朝においては濁音二十を除いて四十八音から四十七音、更に四十四音と次第に減少し、音の構造も、大体五種の母音と九種の子音を基礎として、母音一つか、または子音一つと母音一つから構成せられるようになって、前代よりも単純化したのである。この傾向から察すると、逆にずっと古い時代に溯れば、音の種類ももっと多く、音を構成する単音の種類や、音の構造も、なお一層多様複雑であったのではあるまいか、すなわち、我々の知り得る最古の時代の音韻組織は、それよりずっと古い時代の種々の音韻が、永い年月の間に次第に統一せられ単純化せられた結果ではあるまいかと考えられるのである。



底本:「古代国語の音韻に就いて 他二篇」岩波文庫、岩波書店
   1980(昭和55)年6月16日第1刷発行
   1985(昭和60)年8月20日第8刷
底本の親本:「国語音韻の研究(橋本進吉博士著作集4)」岩波書店
   1950(昭和25)年
入力・校正:久保あきら
1999年11月16日公開
2003年6月15日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
※なお本作品の入力作業には、前記の底本とは別に、福井大学教育地域科学部の岡島様よりご提供いただいた電子テキスト(このテキストは旧表記で、「国語音韻の変遷」『国語と国文学』昭和十三年十月特別号<1938.10.1>を底本としています)を利用させていただきました。
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