は」が、殆ど常に「わ」と書かれている例を見るが、それが一般的になったのは、平安朝の盛時を過ぎた頃らしい。
(四) 右に引続いて、「ゐ」「ゑ」「を」の音(「ひ」「へ」「ほ」から転じたものも)が、「い」「え」「お」と同音になった。これは(三)の音変化よりも多少後であって、それが一般的になったのは、あるいは院政時代であろうかとおもわれる。
以上述べて来たような音変化によって、
(1)ア行のエとヤ行のエとワ行のヱと語頭以外のヘと同音
(2)ワ行のワと語頭以外のハと同音
(3)ア行のウと語頭以外のフと同音
(4)ワ行のヰとア行のイと語頭以外のヒと同音
(5)ワ行のヲとア行のオと語頭以外のホと同音
となって、その結果、伊呂波四十七字の中、「ゐ」「ゑ」「を」が「い」「え」「お」と同音となり、すべて四十四音を区別することとなったのである。これは、現代の標準語におけると同様である。しかるに現代の標準語において「い」「え」「お」は「ゐ」「ゑ」「を」と共に<i><e><o>の音であるが、室町末期の西洋人の羅馬《ローマ》字綴によれば、「い」はiであるが、「え」はye「お」はwoの音であったらしい。殊に「え」は、現代の九州および東北の方言では現代標準語のエにあたるものをすべてyeと発音するところがあるのを見れば、室町末期の西洋人がyeで写したのも当時の事実を伝えているのであろうと思われる。さすれば、平安朝のeもyeもweもFeから変じたweも、室町末にはすべてyeに帰したと考えなければならない。最初eとyeが同音に帰した時、すべてyeになったか、あるいは語頭e語頭以外yeになったろうと考えたが、その後weが、これと同音になったのは、wが脱落したためで、wiがiとなったと全く同じく、唇のはたらきがなくなったのが原因で、かような音変化はFがwに変じたのが唇の働きが弱くなり唇の合せ方が少なくなったのと同一の方向をたどるもので、それが極端になって遂に唇を全く働かせなくなったのであるが、その結果として、weはeとなるべきであるが、eという音は全くなかったためyeとなったか、またはeはあっても語頭だけにしかなかったため、語頭ではe、語頭以外ではyeとなったのであろう。そうして、室町時代においてはこれにあたるものはすべてyeになっているのは、たとい、もとは語頭の場合だけeであったとしても、語中には常にyeであり、しかも、その方がしばしば用いられるために、後には語頭にもyeと発音するようになったのであろうと思われる。
次に平安朝におけるoとwoとが一つに帰して、それが、室町末の西洋人がuoと記した音(その発音はwo)にあたるのは、どうかというに、これも古代国語では、o一つで成立つ音は決して語頭以外に来ることなく、これに反してwoは語頭にもそれ以外にも用いられたが、woの用いられた頻度は比較的に少ないけれども、「ほ」(Fo)から変じたwoが語頭以外に甚だ多くあらわれたから、woは甚だ優勢となり、語頭のoもこれに化せられてすべてwoとなったか、さもなければ、もとの音はどんなであっても、すべて語頭にはo、語頭以外にはwoとなったであろう。かようにしてoは語頭に用いられたとしても、語頭以外にはwoが常に用いられ、且つそれがしばしば用いられたため、後には語頭のoもこれに化せられてwoとなったのであろうと思われる。
かように、種々の音が同音に帰した結果、同音の仮名が多く出来、鎌倉時代に入ってその仮名の使いわけすなわち仮名遣《かなづかい》が問題となるにいたったのである。
(五) 「うめ(梅)」「うま(馬)」「うまる(生)」「うばら(薔薇)」のようなマ音の前の「う」は、第一期においてはu音であったと思われるが、平安朝に入ってから、次のマ行音またはバ行音の子音(<m><b>)に化せられてm音になった(仮名では「む」と書かれた)。このm音は、音の性質から言えば、現代の「ん」音と同一のものである。後には「うもれ(埋)」「うば(嫗)」「うばふ(奪)」「うべ(宜)」などの「う」もこれと同様の音になった。
(六) 平安朝において、音便といわれる音変化が起った。これは主としてイ段ウ段に属する種々の音がイ・ウ・ンまたは促音になったものをいうのであるが、その変化は語中および語尾の音に起ったもので、語頭音にはかような変化はない。音によって多少発生年代を異にしたもののようで、キ→イ(「築墻《ツキガキ》」がツイガキ、「少キ人」がチヒサイヒト、「先《サキ》立ち」がサイダチとなった類)ギ→イ(「序《ツギテ》」がツイデ、「花ヤギ給へる」が「ハナヤイタマヘル」など)、ミ→ム(「かみさし」がカムザシ、「涙《ナミダ》」がナンダ、「摘みたる」がツンダルの類。このムはmまたはこれに近い音と認められる)、リ→ン(「盛りなり」がサカナリ、「成りぬ」がナムヌなど。「サカナリ」はサカンナリである。ンの仮名を書かなかったのである)、チ→促音(「発《タ》ちて」がタテ、「有《タモ》ちて」がタモテとなる。ただし促音は書きあらわしてない)。ニ→ン(「死にし子」がシジ子、「如何に」がイカンなど)などは平安朝初期からあり、ミ→ウ(「首《カミヘ》」がカウベ、「髮際」がカウギハ)ム→ウ(「竜胆《リウタム》」がリウダウ、「林檎《リムゴ》」がリウゴウ)、ヒ→ウ(「弟《オトヒト》」がオトウト、「夫《ヲヒト》」がヲウト、「喚ばひて」がヨバウテ、「酔ひて」がヱウテなど)ク→ウ(「格子《カクシ》」がカウシ、「口惜しく」がクチヲシウなど)はこれについで古く、シ→イ(「落しつ」がオトイツ、「おぼしめして」がオボシメイテなど)ル→ン(「あるめり」「ざるなり」「あるべきかな」が、アンメリ、ザンナリ、アンベイカナとなる類)ビ→ウ(「商人《アキビト》」がアキウド、「呼びて」がヨウデなど)なども平安朝中期には見え、ビ→ム(「喚《ヨ》びて」がヨムデ、「商人《アキビト》」がアキムド)、リ→促音(「因りて」がヨテ、「欲りす」がホス、「有りし」がアシ。促音は記号がない故、書きあらわされていない)、ヒ→促音(「冀《ネガ》ひて」がネガテ、「掩ひて」がオホテ)、グ→ウ(「藁沓《ワラグツ》」がワラウヅ)などは院政時代からあらわれている。その他「まゐで」がマウデとなり(ヰ→ウ)、「とり出」がトウデ(リ→ウ)となった類もある。かように変化した形は鎌倉時代以後口語には盛に用いられたのであって、それがため、室町時代には動詞の連用形が助詞「て」助動詞「たり」「つ」などにつづく場合には口語では常に変化した形のみを用いるようになり、また、助動詞「む」「らむ」も「う」「ろう」の形になった。
音便によって生じた音は右のごとくイ・ウ・ン及び促音であるが、そのうちイ及びウは、これまでも普通の国語の音として存在したものである。ただし、ミ・ム及びビから変じて出来たウは、文字では「う」と書かれているが、純粋のウでなく、鼻音を帯びたウの音で、今のデンワ(電話)のン音と同種のものであったろうと思われる。さすれば一種のン音と見るべきもので、音としては音便によって出来た他の「ん」と同種のものであろう(ンは<m><n><ng>または鼻母音一つで成立つ音である)。ただ、「う」と書かれたものの大部分は、後に鼻音を脱却して純粋のウ音になったが、そうでないものは、後までもン音として残っただけの相違であろう。とにかく、かようなン音は、国語の音韻としてはこれまでなかったのが、音便によって発生して、平安朝頃から新しく国語に用いられるようになったのである。また促音も同様に音便によって生じて国語の音韻に加わった。
(七) 支那における漢字の正しい発音としては<m><n><ng>のような鼻音や<p><t><k>で終るものいわゆる入声音《にっしょうおん》があった。しかしこれは漢字の正式の読み方として我が国に伝わったのであって、古くから日本語に入った漢語においては、もっと日本化した音になっていたであろうが、しかし正しい漢文を学ぶものには、この支那の正しい読方が平安朝に入っても伝わっていた。しかるにその後支那との公の交通が絶えて、漢語の知識が不確かになると共に、発音も少しずつ変化して、院政時代から鎌倉時代になると、次第にそのmとnとの区別がなくなって「ン」音に帰し(「覧」「三」「点」などの語尾mが「賛」「天」などの語尾nと同じくn音になった)、またngはウまたはイの音になり(「上《ジャウ》」「東《トウ》」「康《カウ》」などの語尾ウ、「平《ヘイ》」「青《セイ》」などの語尾イは、もとngである)、入声の語尾のpはフ、kはクまたはキになり、tは呉音ではチになったが、漢音ではtの発音を保存したようである(仮名ではツと書かれているが実際はtと発音したらしい)。そうして平安朝以後、漢語が次第に多く国語中に用いられたので、以上のような漢語の発音が国語の中に入り、ために、語尾における「ん」音(nと発音した。しかし後には多少変化したかも知れない)や、語尾における促音ともいうべき入声のt音が国語の音に加わるにいたった。
(八) 漢語には、国語にないキャキュキョのごとき拗音が、ア行ヤ行ワ行以外の五十音の各行(清濁とも)にわたってあり、クヮ(kwa)クヰ[#「ヰ」は小文字](kwi「帰」「貴」などの音)クヱ[#「ヱ」は小文字](kwe「花」「化」などの音)およびグヮグヰ[#「ヰ」は小文字]グヱ[#「ヱ」は小文字]などの拗音があったが、これらは第一期まではまだ外国式の音と考えられたであろうが、平安朝以後、漢語が多く平生《へいぜい》に用いられるに従って国語の音に加わるようになった。ただし、クヰクヱグヰグヱ[#「ヰ」「ヱ」は全て小文字]は鎌倉時代以後、漸次キ・ケ・ギ・ゲに変じて消失した。
(九) パピプペポの音は、奈良朝においては多分正常な音韻としては存在しなかったであろう、しかるに、漢語においては、入声音またはンにつづくハ行音はパピプペポの音であったものと思われる(「一遍《イッペン》」「匹夫《ヒップ》」「法被《ハッピ》」「近辺《キンペン》」など)。かような漢語が平安朝以後、国語中に用いられるようになりまた一方純粋の国語でも、「あはれ」「もはら」を強めていった「あつぱれ」「もつぱら」などの形が平生に用いられるようになって、パ行音が国語の音韻の中に入った。
(十) 「ち」「ぢ」「つ」「づ」の音は奈良朝においては<ti><di><tu><du>であったが、室町末においてはchi(〔t※i[#「※」は発音記号。「s」を縦に長くした形のもの、163−11]〕)dji(〔d※i[#「※」は発音記号。「ろ」に似た形のもの、163−11]〕)<tsu><dzu>になった(すなわち「ち」「つ」は現今の音と同音、「ぢ」「づ」は正しく今のチツの濁音、すなわち有声音にあたる)。その変化の起った時代は、まだ的確にはわからないが、鎌倉時代に入った支那語、すなわち宋音の語において「知客《シカ》」の「知」また「帽子《モウス》」の「子」のごとき、支那のt※i[#「※」は発音記号。「s」を縦に長くした形のもの、163−14](現代のチの音とほぼ同じ)またはtsu[#「u」の上に「v」](現代のツの音に似た音)のような音がチ・ツとならずしてシ・スとなっているのは、当時チ・ツが今のような音でなくして、<ti><tu>のような音であったためとおもわれるから、鎌倉時代には大体もとの音を保っていたので吉野時代以後に変じたものかと思われる。
(十一) 前に述べたように、我が国古代には、母音一つで成立つ音は語頭以外に来ることはほとんどなく、ただ、イ音ウ音の場合に少数の例外があるに過ぎなかった。しかるに第二期に入ってからは、前述のごとき種々の音変化の結果、語の中間または末尾の音でiまたはu音になったものがあり、また、漢語においては、もとより語尾にiまたはuが来るものが少なくなかったが、平安朝以後漢語が多く国語中に用いられると共にかような音も頻《しきり》に用いられ、自然イ
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