故に、確実に実証することは困難であるが、そう見れば見得る例はないでもないのである。
なお、奈良朝において右の八十七音が存在するのは、当時の中央地方の言語であって、『万葉集』中の東歌《あずまうた》や防人歌《さきもりのうた》のごとき東国語においては同じ仮名にあたる二音の区別が混乱した例が少なくなく、その音の区別は全くなかったか、少なくともかなり混じていたのであろうと思われる。そのほか、中央の言語にないような音もあって、音韻組織に違いがあったろうと考えられるが、委《くわ》しいことは知り難い(東国語の中でも、勿論土地によって相違があったであろう)。
三 連音上の法則
(一) 語頭音に関しては、我が国の上代には、ラ行音および濁音は語頭音には用いられないというきまりがあった。古来の国語においてラ行音ではじまるあらゆる語について見るに、それはすべて漢語かまたは西洋語から入ったもので、本来の日本語と考えられるものは一つもない。これは、本来我が国にはラ行音ではじまる語はなかったので、すなわち、ラ行音は語頭音としては用いられなかったのである。また、濁音ではじまる語も、漢語か西洋語か、さもなければ、後世に語形を変じて濁音ではじまるようになったものである(例えば、「何処」の意味の「どこ」は、「いづこ」から出た「いどこ」の「い」が脱落して出来たもの、「誰」を意味する「だれ」は、もと「たれ」であったのが、「どれ」などに類推して「だれ」となったもの、薔薇の「ばら」は、「いばら」から転じて出来たものである。)これも、濁音ではじまる語は本来の日本語にはなかったので、濁音は語頭音には用いられなかったのである。しかしながら、漢字は古くから我が国に入っていたのであって、我が国ではその字音を学んだであろうし、殊に、藤原朝の頃からは支那人が音博士《おんはかせ》として支那語を教えたのであるから、漢字音としてl音や濁音ではじまる音を学んだであろうが、しかし、それは外国語であって、有識者は正しい発音をしたとしても、普通の国民は多分正しく発音することが出来なかったであろうと思われ、一般には、なお右のような語頭音の法則は行われたであろうと思われる。
また、アイウエオのごとき母音一つで成立つ音は語頭以外に来ることはなかった。ただし、イとウには例外がある。しかしそれは「かい[#「い」に傍線](橈)」「まう[#「う」に傍線]く(設)」「まう[#「う」に傍線]す(申)」のごとき二、三の語と、ヤ行上二段の語尾の場合とだけで、極めて少数である。
(二) 語尾音については、特別の制限はなかったようである。しかし、当時の諸音はすべて母音で終る音であって、後世の「ん」のような子音だけで成立つ音はなかったから、語尾はすべて母音で終っていたのであって、子音で終るものはなかった。支那語には<m><n><ng>や<p><t><k>のような子音で終る音があり、日本人もこれを学んだのであるが、しかしこれは外国語としての発音であって一般に用いられたものではなく、普通には漢語を用いる場合にも、その下に母音を加えてmをmuまたはmi、nをniまたはnuなどのように発音したのであろうと思われる。(万葉仮名として用いた漢字において、mで終る「南」「瞻」「覧」をナム[#「ム」に傍線](またはナミ)、セミ[#「ミ」に傍線]、ラム[#「ム」に傍線]に宛て、kで終る「福」「莫」「作」「楽」を、フク、マク、サク、ラクに宛て、nで終る「散」「干」「郡」をサニ、カニ、クニに宛てたなどを見てもそう考えられる)。
(三) 語が複合する時の音転化としては連濁がある。下の語の最初の音が濁音になるのである(「妻問《ツマドヒ》」「愛妻《ハシヅマ》」「香妙《カグハシ》」「羽裹《ハグクム》」「草葉《クサバ》」など)。この例は甚だ多いけれども、同じ語にはいつも連濁があらわれるというのでもなく、いかなる場合に連濁が起るかという確かなきまりはまだ見出されない。あるいは、もっと古い時代には規則正しく行われたが、奈良朝頃にはただ慣例ある語だけに行われたものであったろうか。
次に、語が複合するとき上の語の語尾音の最後の母音が他の母音に転ずることがある。これを転韻ということがある。これには種々ある。
[#ここから二字下げ]
エ段の仮名にあたる音がア段にあたる音に転ずる(竹《タケ》―たかむら[#「か」に傍線]、天《アメ》―あまぐも[#「ま」に傍線]、船《フネ》―ふなのり[#「な」に傍線])
イ段の仮名にあたる音がオ段にあたる音に(木《キ》―木《コ》の実、火《ヒ》―火《ホ》の秀《ホ》―※[#「※」は「焔」の正字体で「旧」の部分が「臼」、151−8])
イ段の仮名にあたる音がウ段にあたる音に(神《カミ》―神《カム》ながら、身《ミ》―身実《ムザネ》、月《ツキ》―月夜《ツクヨ》)
オ段の仮名にあたる音がア段にあたる音に(白《シロ》―白髭《シラヒゲ》)
[#二字下げ終わり]
エ段イ段あるいはオ段の仮名にあたる音が二つある場合には、右のごとく転ずるのはその中の一つだけであって、他の一つは転じない。(例えば、「け」に当るのは「気」の音と「祁」の音であるが、カに転ずるのは「気」の音だけで、「祁」の音は転じない。)
しかし、右のような音のある語は常に複合語において音が転ずるのでもなく、全く転じない語もあって、その間の区別はわからない。想《おも》うにかように転ずるのは、ずっと古い時代に起った音変化の結果かと思われるが、その径路は今明らかでない。奈良朝においても、その結果だけが襲用されたもので多分に形式化したものであったろう。そうして同じ語でもこの例に従わぬ場合も多少見えるのは、このきまりが、奈良朝において既に守られなくなり始めていたことを示すものであろう。
次に、複合する下の語の語頭音が母音一つから成る音(アイウエオ)である時、その音が上の語の語尾音と合して一音となることがある(荒磯《アライソ》―ありそ[#「り」に傍線]、尾《ヲ》の上《ウヘ》―をのへ[#「の」に傍線]、我《ワ》が家《イヘ》―わぎへ[#「ぎ」に傍線]、漕ぎ出《イ》で―こぎで[#「ぎ」に傍線])。これは、語頭の母音と語尾音の終の母音と二つの母音が並んであらわれる場合にその内の一つが脱落したので、古代語において母音がつづいてあらわれるのを避ける傾向があったことを示すものである。「にあり」「てあり」「といふ」が、「なり」「たり」「とふ」となるのも同様の現象である。「我《わ》は思《も》ふ」「我《われ》はや餓《ゑ》ぬ」など連語においても、これと同種の現象がある。かようなことは当時は比較的自由に行われたらしい。
三 第二期の音韻
平安朝の初から、室町時代(安士桃山時代をも含ませて)の終にいたる約八百年の間である。この間の音韻の状態を明らかにすべき根本資料としては、平安朝初期には万葉仮名で書かれたものがかなりあるが、各時代を通じては主として平仮名で書かれたものであって、この期の諸音韻は、大抵は平仮名・片仮名で代表させることが出来る。そうして、平安朝初期に作られその盛時まで世に行われた「あめつち」の頌文《しょうぶん》(四十八字)およびその後これに代って用いられた「いろは」歌(四十七字)が、不完全ながらもその当時の音韻組織を代表するものであった。しかるに、この仮名は初のうちは相当正しく音韻を表わしたであろうが、院政・鎌倉時代から室町時代と次第に音韻が変化して行った間に、仮名と音韻との間に不一致を来《きた》し、仮名が必ずしも正しく音韻を代表しない場合が生じた。ところが、幸に外国人が、外国の文字で表音的に当時の日本語を写したものがあって、その闕陥《けっかん》を補うことが出来る。支那人が漢字で日本語を書いたものと西洋人がローマ字で日本語を写したものとが、その重《おも》なものであるが、支那人のものは鎌倉時代のものも多少あるが、室町時代のものはかなり多い。しかし漢字の性質上、その時代の発音を知るにかなりの困難を伴う。西洋人のは、室町末期に日本に来た宣教師の作ったもので、日本語について十分の観察をして当時の標準的音韻を葡萄牙《ポルトガル》式のローマ字綴で写したものであるから、信憑《しんぴょう》するに足り、且つ各音の性質も大概明らかであって、当時の音韻状態を知るべき絶好の資料である。
一 第二期における音韻の変遷
第二期の終なる室町末期の京都語を中心とした国語の音韻組織は、大体右の資料によって推定せられるので、これを第一期の終なる奈良朝の音韻と比較して得た差異は、大抵第二期において生じた音変化の結果と認めてよかろうから、その変化がいつ、いかにして生じたかを考察すれば、第二期における音韻変遷の大体を知り得るであろう。
(一) 奈良朝時代の諸音の中、二音が後の仮名一つに相当するものは、「え」の仮名にあたるものを除くほかは、すべて、平安朝初期においては、その一つが他の一つと同音になり、その間の区別がなくなってしまった。そうしてその音は、これにあたる仮名の後世の発音と同じ音に帰したらしい(ただしその中、「ひ」「へ」にあたるものはフィフェとなった)。かようにして、「き」「け」「こ」「そ」「と」「の」「ひ」「へ」「み」「め」「よ」「ろ」「ぎ」「げ」「ご」「ぞ」「ど」「び」「べ」の一つ一つに相当する二音が、それぞれ一音を減じて、これらの仮名がそれぞれ一音を代表するようになった。この傾向は奈良朝末期から既にあらわれていたが、平安朝にいたって完全に変化したのである。
(二) 「え」にあたる二つの音、(すなわちア行のエとヤ行のエ)の区別は、平安朝に入ってからも初の数十年はなお保たれて仮名でも書きわけられていたが、村上天皇の頃になると全く失われたようである。伊呂波歌以前に、伊呂波のように用いられた「あめつち」の頌文は四十八字より成り、伊呂波より「え」の一字が多く、「え」が二回あらわれているが、これは右のア行のエとヤ行のエとを代表するものと認められ、その四十八字は(一)に述べたような音変化を経て、まだ「え」の二音の別が存した平安朝初期の音韻を代表するものである(ただし、濁音はそのほかにあるが、清音の文字で兼ねさせたのであろう)。伊呂波歌はこの二音が一音に帰した後の音韻を代表するものである。さて、「え」の二音すなわちeとyeとが同音となって、どんな音になったか。普通常識的にe音になったと考えられているようであるが、必ずしもそうとはいえない。古代の国語では、母音一つで成立つ音が語頭以外に来ることは殆どないのであって、ただ「い」(i)と「う」(u)の場合に極めて少数の例外があるに過ぎない。「え」の二音のうちのeもまた語頭にのみ用いられた。これは、つまり古代国語では、一語中に、母音と母音とが直接に結合することをきらったのである。yeは語頭にも語頭以外にも用いられたのである故、eとyeとがすべての場合に同音に帰したとすれば、eよりもむしろyeになったとする方が自然である。何となれば、eになったとすれば、語頭以外のeはその前の音の終母音と直接に結合して、古代国語の発音上の習慣に合わないからである。しかし、またもとのeとyeとの区別が失われて、新たに語頭にはeを用い、語頭以外にはyeを用いるというきまりが出来たかも知れない。そんな場合にも、このeとyeとを同じ文字で書いたことは、東京語における語頭のガ行音と語頭以外の鼻音のガ行音とを文字に書きわけないのによっても理解することが出来る。かようなわけで、eとyeとがすべてeになったとする説は極めて疑わしい。
(三) 次いで語頭以外の「は」「ひ」「ふ」「へ」「ほ」の音が「わ」「ゐ」「う」「ゑ」「を」と混同するようになった。これは「は」等の音の初の子音Fが唇の合せ方が少なくなり同時に有声化してw音に近づき遂にこれと同音となったもので(「ふ」はwuとなったのであるが、wuの音はなかったためuになった)、かような傾向は既に奈良朝から少しずつ見え、平安朝初期においても「うるはし」(麗)の「
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